会期終了から2週間が経ってしまいましたが、シゲキバアルテ2012-2013にご来場頂きありがとうございました。今回のグループ展ではあらゆることをやってみまして、まずその全てが遂行された事のお礼をシゲキバ関係者の方々に感謝とお詫びを申し上げたいと思います。一部拒否される可能性があるものをゲリラ的に強行してしまった事もあり。さすがにこれは無理だろうと思ってやらずに終わったものあり。総合的に見てもやれる事はやれたと思っています。ブログでの報告が遅れたのは、今回のグループ展の最終的な落とし所として用意していたアクションの編集に追われていたためです。



 作品解説です。今回出展した『Atrekiiz Sadonwarpho(アトレキッス・サドンヴァーフォ)』ですが、自分がフォトコラージュをやっていく事の責任が浮き彫りになった作品となっておりまして、これは全くの偶然発生した自然の産物であり、導かれた啓示の様なものとなりました。


 フォトコラージュという行為は写真を出発点とし、それを切り抜き、合成していくという作業。これまでこの活動を続けていく中でずっと自分の中にあった疑念。撮影されたモチーフがどういった経緯でそこに存在しているのか、今自分の目の前に存在するまでにどれだけの時間が掛かったのか、それをその場でめぐり合い、カメラを向ける。木がそこにある。芽吹き、一本の立派な樹木に成長するまでにどれだけの時間が必要だったのか。一本の電柱にカメラを向ける。人々の生活に密接した役割を持ってそこにある。その形状は誰が考えたのか、そこに建っている意味は、何人の労力によってそこに建てられたのか、その費用は。そんな事を考えながらカメラを向ける。そのモチーフがそこに存在するまでにかかったあらゆるものと、そのモチーフを得るために自分が払った労力。それを対比させることによって浮き彫りになるものは常に己の矮小さ。そうしたものに支えられて生きている。だからそうした森羅万象への敬意と何気ない景色からふとした美しさを抽出し、凝縮した美的集合体によって形成することが自分の理念であると位置づけている。


 これまでは常にオリジナリティを模索して作品制作に挑んでいた。自分と他者との決定的な違いと優位性、作品毎の特色と連続する共通意思。しかし作品のモチーフ一つ一つを紐解いていくとそこに徹頭徹尾のオリジナリティなど存在せず、あるのは視点の変化や解釈の新提案といったものでしかなかった。点を産み出すのではなく、線で繋いでいく作業。本来繋がる事のなかったもの同士を繋げる。0を1には出来ないけれど、+αを提示する事はできる。フォトコラージュとはそういったものであり、この世のあらゆる事象の再構築とテクノロジー謳歌。自然と社会、双方において人間が限りなく限界地点で関わろうとすることが出来る行為。



 これまでプロフィール画像として使えるような、使ってきたものが2つある。1つは『Psycho gravity』。これは結果的に自画像という体でフォトコラージュを用いた活動を始めた最初の頃に使っていた。内面から溢れ出ているイメージ。

2つ目はタイトルなしのこれ。今使っているプロフィール画像。一昨年の11月にJ:COMの番組内でスタジオ装飾をさせてもらった際の紹介で必要に迫られたので作成。自画像という体で制作。まるで物事を司っているかのような感じ。

そして今回の『Atrekiiz Sadonwarpho』。前2つとは打って変わって引き出されているイメージ。外界にある全ての事物・事象への敬意を持って空間を形成し、形成させてもらい、こういった活動を続けさせて頂ける事への謝辞を表現している。これは全くの偶然で、背中からチョウチョペンギンが出てきている事に特に意味を考えることなく、今自分に出来る事をやった。完成間際から作品の意味を何となく考え始め、上記のような内容が頭をめぐり、これまで自分が制作してきた作品群を思い返し、自分が延々求めていたオリジナリティとは、このチョウチョペンギンだけなのではないか。そう思った。Utopian Dystopiaまでのペンギンは何の変哲もないペンギンそのもの。作品を見た人の多くは「ぺんぎんかわいい」という感想を持つ。しかし自分がそのときペンギンを用いていたのは「盲目的に追従する現代日本人の象徴」という意味合いを持ってだった。かわいいとは真逆。かわいいという観点でペンギンを使ってはいなかった。Utopian Dystopia以降の作品では蝶の羽が生えたペンギンが登場するようになる。これはこれまで人間としてペンギン使っていた行為への謝罪の意味を込めていて、鳥類に還すという思いによって綺麗な羽を与えてやろうとして生まれた。同時に、色々なところで出展する中で、綺麗なものを作り出すイラストレーターの人達への変な対抗意識と、「ぺんぎんかわいい」に対して「オレが本気出したらこんなもんじゃねぇからな」というエナジーの噴出によってという側面もある。ある程度このチョウチョペンギンを出したらペンギンというモチーフの使用を辞めようと思った。だから最後にペンギンを限界まで使おう、使いきろうと思った。それが『Albino Morning Dream』であり、あの中にペンギンは170羽ぐらいいる。


 そうして作品制作を続けながら、去年からライブペイントを始めた。コラージュをやる時間を割いた。同時に撮影にかける意識も割いた。今回の『Atrekiiz Sadonwarpho』を制作するに当たり、構図と素材不足には本当に悩まされた。その中でどうにか構築していった結果、生まれたのが自分の背中から出てきたチョウチョペンギン。それを司るのは動物園のシカ。このシカには色々と思い入れがありまして、いつも撮影しているのだけれど、コラージュの中で登場することがこれまでなかった。いつも撮影しているし、制作中は切り抜いて当てはめてみることが過去何度もある。いつも警戒した様にこちらを見つめる。今回いつものようにシカの写真に行き着き、これまでまるで考えもしなかった耳に打ち込まれたプレートに目がいった。小さい耳には大きすぎるそれがあまりに痛々しく、コラージュに無理矢理にでもねじ込んでやろうと思った。これまでの作品に登場する動物たちはあたかも野性に生きているように見せていた。しかし元の写真で彼らは檻の中にいる。水槽の中にいる。そうした状況の中にいる生き物を利用し、長い年月を経て形成された風景を利用し、人々の労力の結晶を利用し、挙句オリジナリティを打ち出そうとしている。そうした自分の傲慢さを感じながら、手を止めてしまっては全てがお仕舞いだと何とか制作を続けている日々。前述したチョウチョペンギンが生まれた経緯、それは思いの相違と、限界までペンギンと関わろうとした結果生まれたもの。これが自分がフォトコラージュを続けてきた中で手にした唯一のオリジナリティ。そう感じた。0から1を生み出す。白紙の中に新たな点を生み出す。そうではなく、点と点を繋ぐ「線」こそが自分にとって大きな事だったのだと気付いた。


 バラバラの点を線で繋ぎ、一つの輪にする。関係性の再構築・明確化。意味付け。これが自分の強み。フォトコラージュもそうだけれど、この力を身につけたのはコラージュ以前の活動、楽曲製作及びコンセプトアルバム制作だったと言える。方法論が変わっても削ぎ落としても残ったもの。それが線。自身で作り上げた楽曲同士の結びつき、この世の事象・事物の結びつき。これまでやってきた事から自分が今この瞬間においてすべき事は自分と人との結びつきに対しての線の構築・確立。他者との関わりによって自分に何が出来るか。それが今回のグループ展における諸々の画策に繋がる訳です。


 フォトコラージュとライブペイントの両方を納得の行く形で1つのものとして提示したかった。確固たる意思のモニュメントとしてフォトコラージュを打ち出し、衝動の具現化をライブペイントで描いた。沸き上がる衝動の結晶がフォトコラージュという。搬入時にライブペイントの感じで加筆を施した。シゲキバアルテはトークイベントがあり、それが醍醐味であり、自分のライブペイントが絵描きのライブペイントとは異なる性質を持つものであり、まだ初めて間もないという事もあり、あまり自分のライブペイントが周りに浸透していないという現状をどうにかすべく、証人を作ろうと思った。ペイント部分は既に完成されていて、加筆する必要はなかった。結果的に沸き上がる感じが分かり辛くなるほどにサイドがビシャビシャになってしまった。しかし作品のクオリティを下げてでもやる必要があった。その甲斐はあった。自分が予想していた何倍も大きくなって返って来た。




 公開制作第一弾ではライブペイント風でキャンバスに作るという事をやり、ある程度黙ったままでも作品は作れるというのをやってみたかったのでやりました。適材適所というと語弊がありますが、その場で出来る最大限のギリギリラインをみつけてやっていきたいな、と思っています。その表れがあれです。第二弾は前述したように、線を構築・確立する行為でした。出展者一人一人に自分とあなたがどういう関係にあるのかを示した。


 そして今回グループ展でする事の最初に閃いていたアイデア、動画を撮ろうという無茶な自主企画。ライブペイントの宣伝用の動画を作りたいとは常日頃思っていたこと。しかしどうやってやればいいものか。自分で撮影するにはかなり無理のある自分のスタイル。作る過程では難しいけれど、壊すのだったらいけるんじゃないか。そう思い立ってしまったのが運の尽き。やりたい衝動のみが膨れ上がり、着々と準備が進む。そこから搬入の加筆や公開制作の内容も弾き出されたわけでして、衝動に衝動を上塗りしていき感極まって最終的にぶっ壊すという越点のエナジー。今回、動画用の楽曲も作りました。曲はシゲキバアルテ会期中に出来上がりました。曲中にアルテの空気感を入れたいと思い、密かに歓談中の音声を録音していました。誰がどんな内容を喋っているとかではなく、ガヤガヤしている感じがベストでした。全部まとめてぶち上げたい。自分に出来る事を何でもやって線の強い結びつきを作り上げたい。やはりいきなり直接的な会話で物事をどうこうとは出来なくて、自分に出来る事で物事を動かしたい。もちろん違うやり方で人と関わろうとするからには、通常人との関係で生まれる以上の効果を生み出したい。それをやりたい。それをしなくてはならない。昨年末から自分の活動を通して人の心に火を付ける役割を担いたいと書いている。そうありたいし、アートと分類されるものの社会における役割はこれを置いて他にないと断言してもいい位だ。眼前で起こるあらゆる人の力、自然の力を目の当たりにして自分の力の小ささを実感するけれども、最小単位たる個の最大限の貢献が熱の連鎖で人々の日々の生活にちょっとした変化を与えられるのではないかと信じている。インプットが同じでも、人それぞれアウトプットが違う。それが見たい。自分に出来る事は点と点を繋ぐ線を見つける事、それを提示する事。音との共鳴によって感情を暴発させる事だけ。これしかないけれど最大限己の全てを懸ける。それを見て何を思うかはその人次第だし、後はもう何もない。その人に託すしかない。そうして世界は社会は動いていく。世界を変える力はない。そもそも変わったかどうかを確認する術はない。だからこう考えよう。解釈をちょっとだけズラす。そうして世界は社会は変質していく。そのための火付け役になりたい。


 前置きが長くなりましたが本題。『Kosuke Jodai 搬出Performance -Shiraba-』 です。Shirabaとは搬出の通称バラシを反対にしたものです。解体という意味での搬出行為を逆から読む。壊してはいるけれどもそこにあるのは創造。作り上げるのは共鳴からなる昇華の燃焼姿勢。スチロールパネルで制作した事、加筆して作品のクオリティが下がっても大丈夫、むしろそれがOKだった理由、公開制作第二弾の最後上のほうに置いたリンゴ。それらがこの動画制作のためのものであったことがお分かり頂けるだろうか。作品自体はバラバラになってしまったけれども、動画として人の目に触れる機会は今後他の作品以上に多くなるように願っている。本当は壊したくないぐらいちゃんとしたものが出来てしまった。だからこんな映像だけれども、どうか一度観て下さい。何かが変わるのを期待しています。出来ればPCにてフルスクリーン、爆音で部屋の明かりを消して視聴して頂けると嬉しいです。



 今回のシゲキバアルテ2012-2013は3つのグループに分かれており、グループA・B・Cそれぞれ赤・青・黄の色彩を発しているように感じた。全員が全員その色に当てはまっていたわけではないが、そうした雰囲気を感じ取った。同じグループAの持つ特色もそうだし、『Atrekiiz Sadonwarpho』は綴りや音の感じで赤を基調にしようと思っていたし、自分は真っ赤だったなぁと思います。なので動画の最後は真っ赤になっています。


 先月から続く数々の出来事に感謝しても仕切れない。グループAの皆さん、あのポジションを与えて下さりありがとうございました。みなみくんは恋人に関わる全ての人へ、本当にありがとうございました。そしてシゲキバ。こんだけやっといてあれですが、もっと何かしたいです。またよろしくどうぞ。