旧ドラえもんとゴロリの笑い声が同じなのにはきっと深い深い訳があるのだろうと勘ぐった所で、何も無い事は分かりきっている。だからもっと有機的な事を考えよう。数年前に多くの路上生活者を輩出しておきながら、あのふざけたCMはきっと、国内市場を捨てますという意思表示なのかもしれないと勘ぐった所で、何の意味もない。事は何も動かない。


 優良とは、巨大であるという事ではない。儚く小さな存在を育て上げた男はもういない。彼は何を伝えたのだろう。彼らは彼から何を学び取ったのだろう。開拓者と順応者。革新は継続しなければならない。人々を牽引しなければならない。機械に依存するシステムに、誰かがブレーキをかける必要があったのかもしれない。それは妨害ではなく、また新たな選択肢の開拓であり、同じく革新。一本の道を太く広く、長くする事は大事なのかもしれない。細い道に一人で歩くのと、広い道を大勢で歩くのは、結果的には同じなのかもしれない。前者には選択肢が限られ、行える事は少ない。後者は、選択肢に群がり、取りこぼし、一人に一つの選択肢も割り振られる事もない。しかもその速度は早く、食い潰されるだけの選択肢は、実体が無い故に種を付けず、消費されて霧散するばかり。次の手立てにも結び付かないままに。どうすばいいかを考えていた人はいなくなり、それを実行する人々だけが取り残され、失敗の上塗りと転嫁を繰り返す。


 言葉や文字は意思を伝える為に発達した。しかし、言葉も文字も、同時に幾つかの意味を内包するようになり、発言意思とは異なる結果を齎す事が多く、そのすれ違いの収束した現代で、偉人の遺した言葉など無意味に等しいものとなってしまっている危険性を示唆しながら、自分の言葉を捜す。それがかつて偉人の発した言葉であろうと、誰にも記憶される事無く消えていった誰かの言葉であったとしても、それらが自分と繋がる事無くまったくの偶然によって閃いた言葉であるなら、それは大事にするべきだ。大っぴらに叫ぶよりも内に添え、その言葉の持つ複数の意味を考えながら、飛散した際の結果を創造し、それに対応出来るようになりたい。ある人は西を向き、またある人は東を向く。またある人はその場で眠り始めるかもしれない。相手のそれまでの人生や思考パターンを看破出来るほど、自分には観察力も対応力も無い。だからこそ願う。だからこそ観察し、最初の一歩を見定める。