個展"Utopian Dystopia"終了しました。ご来場頂いた方々、本当にありがとうございました。こんなにも3週間という期間が短いとは。さすがは逃げる月といったところか。時間はどうあれ、何とか全日在廊という偉業を成した事、"Utopian Dystopia"全20点に囲まれてギャラリーで寝るなど、なかなか出来ない事が出来たのも良かった。しかもIAF SHOP*のギャラリーの壁紙を張り替えて1発目の展示というありがたい位置に展示させて頂きました。
 今回の展示はこれまで自分がやってきた事の一旦の集大成であったわけで、計画の発端から実現までにかなり時間を要したものだった。今回の展示物をいきなり提示しても良かったのかもしれないが、その前に自分としてやっておかなければならないと思うものをこなしてから"Utopian Dystopia"というものにつなげたかったからだ。


 昨年行った個展『Suture Removaled』以前から既に計画はしていたのだけれど、まず自分が何をしているのかを知ってもらう目的で自分のフォトコラージュという手法を見てもらう目的で行った。その半年後に行った『EMITS "REAL"』はフォトコラージュという制作の中で、より作品と強く向き合うべく、自前写真のみでのコラージュとフリー素材のみでのコラージュを展示・比較し、それが実際に上手く人に理解してもらえるかを目的とした実験的なものだった。「自分がどういった存在か」、「他と比較してどう違うのか」をまず提示したかった。どちらも"Utopian Dystopia"をやる上で、どうしてもやっておかなければならなかった。「抜糸」と「現実を発する」という自分が行う行為の流れの着地点として「理想郷的暗黒郷」を迎えたかった。


 "Utopian Dystopia"にはUgly Face、Physical Bubbleの2つの概念が存在し、それぞれ人間・社会、惑星意思という要素を持たせている。その2つが協調・対立の様をTwo theme Contact・Two theme Conflictによって提示する。この4つの題材から5点ずつ計20点によって形成された言わばコンセプトアルバムのようなパッケージ化させ、"Utopian Dystopia"というものをなっている。


 Physical Bubbleの5点は自然の摂理を体現した回帰・輪廻・進化・伝承をそれぞれが表現している。それに対し、Ugly Faceは管理・従属・延命を表現している。Two theme Contact・Two theme Conflictと合わせても、人間や社会は自然摂理から逸脱し、その自然摂理を掌握、または変質・破壊しようという姿勢を強く押し出したものになっている。しかしこの"Utopian Dystopia"では、そういった人間・社会の行動に対して糾弾しようという意思はない。ただ紛れもない事実を提示し、鑑賞者それぞれの思考や日常にちょっとした火を灯せればいいという姿勢だ。火を灯すといっても、人の人生を変えてしまうような思想を植えつけようとかではなく、「そんな事は言われんでも分かってる」といったものでもいい。その現状を分かった上で、なおも止まる事の出来ない日々を、止まれないのならいっそ徹底的に突き進んで欲しい、そのためのちょっとした活力のようなものを与えたい、そういった火付け役に自分はなりたいと思っていた。


 この"Utopian Dystopia"は昨年6月に鹿児島のアートマーケットで1度展示している。その時に、出展作品のジャンルを書かなければならず、単純にフォトコラージュにしたくなく、フォトコラージュというのはあくまでも制作上の手法であって、完成品はいわゆるフォトコラージュ作品ではないというのが自分の中にあったので、「美的集合体による風刺表現」といった作品ジャンルにしていた。そしてそれを最近まで本当に忘れていた。ふと思い出した時、凄く納得のいく言葉だなぁと感じた。制作をする上で使用する写真に関しては何の含みも嫌味もない。純粋にいい写真が撮れたから使った、これとこれを合わせれば上手い事いくんじゃないだろうかといった動機で使っている。結果的にそれが風刺画的な表現に行き着いたのは、それはこれまで自分がそういった表現を行っていたものに惹かれていたからであり、反体制的な思想にそれほど被れることなく、前面に押し出したりしないようになったのは単に、そういった逆行に立ち向かう姿勢やエネルギーが自分にとって最も感化させられるものだったからかもしれない。一見、否定的に見えてしまうものも、実際には全て肯定のもとで行われていた。自己矛盾との葛藤はその人の業に直結するものだと自分は感じている。個人個人の能力は社会全体においてあまりにもちっぽけだ。しかしその集合体によって社会は形成されているのであり、一部の権力者によって掌握され、富の独占が行われているのだとしても、決して動きを止めない、戦い続ける人間の普遍的な美しさを表現したものと捉えるという一方での思いもあった。「理想郷的暗黒郷」は「暗黒郷的理想郷」とも言い換えられる。社会は我々に万物を与え、搾取する。その逆も然り、その社会が作り上げたサイクルによって個人はあらゆるサービスの中で生きられる。幸福と不幸を継続的に与えられ浸り続けると、感情は幸福よりも不幸の方に流されていく。無意識に傲慢になって堕落していく事に警鐘を鳴らし、システムに隷属する没個性を強いられた存在から、自意識を取り戻し何事もない日常を少しでも変えられる力を呼び覚ませたい。それが"Utopian Dystopia"の本質。決して社会に敵対して蔑もうというものではない。しかし、こうすべきだという方向性を示すものでもない。1つの方法で万人が報われるなんて事は有り得ないし、個々人の問題は千差万別で解決方法もそれぞれ違う。そしてその解決方法が誰かの幸福を阻害する結果になるのもまた事実なのだから、現状の描写に留めている。


 3点だけ作品解説をしたいと思う。"Utopian Dystopia"の作品群が提示したそれぞれの要素から最終的に着地すべき『Mandara [Sufferings caricature]』『Re:Genesis』『Racists』の3点。



 中央上部にいる男には蛸の顔。蛸は獲物を上から覆うようにして捕食する。それは人間がこの星を掌握しようとする様に似ている。蛸の顔は支配者の象徴。左には民衆(ペンギン)にネジを撒く男。顔は電車の中で撮った扇風機の首の部分。子どもの頃、首振りの扇風機じゃ全然涼しくなくて、ガチガチガチっと無理矢理自分の方に向けたりしていた。人は少し与えられると、余計に欲しくなってしまう。それを象徴した顔。民衆に撒いているネジは「繋がり」を表している。ネジは物と物とを繋げる役割を持っており、社会とは人と人とを繋ぐ役割を持っている。その暗喩。その与えられたものによって栽培されている我々個人。教育や権利によって、野生的に生きていく術を持たずとも生き長らえ、社会の一員として迎えられる脆弱な我々の象徴としての野菜。その周りに浮遊する点と線の浮遊物。これらは繋がりという束縛。繋がり無しには生きられない我々にとって、繋がり自体が生き難くなっている枷にもなり得る。右の床屋の回転するポールは、税金などに付随する、社会に属する上での義務を象徴したもの。髪を切るという行為は定期的に行われる習慣の象徴としたもので、周辺に散らばるパズルのピースは、社会生活において自ら選択、あるいは剥ぎ取られていく個人個人が抱いていた理想。与え、与えられる関係性がサイクルを生み、社会は構成されている。下部のキングペンギン達は、上部の支配者と合わせて、上には上がいて、下には下がいるという事を表している。キングペンギンという名前だと、下というイメージを持ちにくいかもしれないが、顔と目が黒いという事もあり、表情が豊かなフンボルトペンギンに対し、無感情なイメージがあり、採用している。背景部分は最後に前面にも被せており、社会の閉鎖的相互管理をアクアリウムの水槽の中の様に表している。
 全体を泳ぐ金魚と鯉に関しては、個人的なものではあるが、自分が未だに海外に行った事がないという事と、特にこの作品は日本の社会構造を見て生まれたという側面が強いという事もあり、金魚と鯉をモチーフとして選んでいる。しかし、実際に作品が仕上がると、日本だけの問題ではなく、社会全体に当てはまるものではないかと作者は思うのである。
 他の作品と異なりシチュエーションではなく、曼陀羅として概念を提示しており、壁画をイメージして制作した。社会を端的に表す縮図となっている。



 『Mandara [Sufferings caricature]』は今現在を形にしたものとするならば、この作品は未来を提示している。いつかは明確にしていないが、人類が滅び、海と地上と空が垣根をなくし、惑星が再生していく様を表している。時系列的に考えれば、"Utopian Dystopia"の20点目に当たる作品。惑星は一から再生する力を持っている。また同時に破壊する力も持っている。この作品は再生の瞬間を見せてはいるが、その前には破壊が施行されたのか、文明の衰退・自滅があったのかは鑑賞者の解釈に任せる。



 この作品は20点の中で最初に出来た作品。Racists=「人種差別主義者」と名付けられているが、当初はレイシストという音の響きと綴りが作品の色と形にあっていたためで、そこまで深い意味で付けたものではなかった。その後"Utopian Dystopia"の作品群を制作しながら、何に対しての差別なのか、シチュエーションの解釈にも説明可能な部分が出来てきて、逆説的になぜRacistsが人種差別主義者という意味を担ったのかが浮き彫りになってきた。左端にある真っ二つになったドラゴンフルーツ。社会に属して失うものを経験し、その現実から逃避し、パラレルワールドに渡るも、結局は傷付いてしまう、社会に属することでしか生きられない脆弱な存在である事への自己嫌悪を表している。1番最初に出来た作品であるが、最終的に辿り着く先という解釈も可能。離脱者の肖像。


 上記の3点の解説の様に、20点の内どれを起点に見始めても、どこで結論付けても構わないように配置していて、自分のアウトプットと鑑賞者のインプットを必ずしも同期させようということはない。確固たる意思が確固たる意思を刺激し、鋭敏な神経を呼び覚ます様な感覚を生み出せたら、というのが起こっていれば今回の展示に意義はあったのだろうと確認できる気がします。今後自分が行っていく事とは別のものであると考えていたけれど、会期中に色々考えていると、これからやっていく事もこれまでと大きく変わらないのではないかと思うようになった。作品の意味を押し出すものではなく、より鑑賞者に強い衝撃を与える側面を重視したものになっている。マイナスの感情を抱かせるのではなく、プラスになっていけるような作品制作を目指そう。今はそう思うわけです。とにかく言われた事でもあるし、自分でも強く思っていた事、フォトコラージュ作品という呼び方は辞めようかなといった感じです。