第18回 ナマ・イキVOICE アートマーケット終了しました。お越し下さいました皆様、ありがとうございました。今年はスタッフルームに通じる通路だったので、目立ちにくい端のほうのスペースにも関わらず、かなりの来訪者でした。一気に10人ぐらいブースに来るとどうしていいいか分からないパンパンな状態になったり。これを嬉しい悲鳴というのだろう。だいたい黙してましたけど。


今回の展示模様です。





 入り口からL判の写真をうねる様に貼り、それが最終的に一つの絵に集約される、という事をやりました。新作というべきかどうか分かりませんが、『Albino Morning Dream』です。この絵は2年以上前に一度着手したのですが、まだ自分には無理だと悟り断念したものでした。そしてUtopian Dystopiaの作品群を作っていく中で、そろそろいけるかもしれないと思い、再度着手したものです。構想自体はUtopian Dystopiaよりも前です。どういった風に展示するのかを考える時間は山ほどあった。その結果が今回の展示です。
 そもそもAlbino Morning Dream(白化してゆく朝方の夢)というタイトルは、自分の楽曲製作の方で作ろうと思っていた3rdアルバムのタイトルでした。そして当然これがジャケットになる予定でした。しかし、制作のメインがフォトコラージュとなり、より制作の時間をフォトコラージュに向けるようになり、本来アルバムとして表現したかったAlbino Morning Dreamとは別の解釈が生まれ始め、「現実の辛さの中での夢の安らぎ」という当初のテーマから、「夢とフォトコラージュの相似と相違」というアイデアが生まれた。
 夢はその日起こった事を睡眠中に頭の中で整理する過程で見るもの。いわば現実の結晶なのだと。フォトコラージュの方はどうか。これもまた現実の結晶なのだと。特に自分は自前写真のみで勝負していいるということもあり、その側面は強い。夢もフォトコラージュも現実の結晶であるという事(相似点)。では何が違うのか。意識的が無意識的かの違いにある(相違点)。
 夢の内容は突拍子のないものがほとんどで、非常に魅力的な内容を孕みながらも、記憶には残りにくい。これは言わば自然現象であり、夢そのものを絵や映像にしてもそれは芸術とは呼べないものだと思う。フォトコラージュは実際に自分の目の前に現れたもの、起こった事を合成して一つの空間を形成する。捉えた写真のすべてが合成されるわけではない。シャッターを押して押して押しまくったその中のほんの一部がフォトコラージュの素材となる。ただ闇雲に重ねたものを芸術とは呼べない。意識的に作るべき空間のために制御する。選択を行う。これがフォトコラージュにあって夢にないもの。
 フォトコラージュは現実の結晶。そしてその証明を行ってみようという事で、今回の展示はAlbino Morning Dreamを構成する上で使用した写真を全て展示した。ただそれだけじゃつまらないので、あえて最初はAlbino Morning Dreamが見えない状態で写真だけが目に入るようにして、鑑賞者に写真の展示だと思わせようと考えた。写真の展示だと思わせておいて、Albino Morning Dreamが置いてある。ただAlbino Morning Dreamを展示するよりもインパクトは大きいだろう。構想自体はフォトコラージュを始めてすぐぐらいからあり、制作も1年以上かけた。ただ普通に展示はしたくなかった。
 夢を模した絵画。しかしそれは現実の事象が寄り集まって完成している。夢と現実は相互に影響し合っているが、どちらかといえば現実の比重が高い。睡眠は人生の三分の一と言われている。逆を言えば三分の二は活動している。当然、眠っている間も身体は活動している。何が言いたいかというと、「芸術とは何か」という問いになってくる。夢が持つ創造の可能性は大きいが、それは自然の要素である。芸術というものは自然の中では何の役にも立たない。よく芸術は社会の役に立たないものという見方をされるが、実は逆で、社会(コミュニティ)の中において唯一意味を見出すものだと思う。そしてもう一つ、社会に属する人間が自然の要素に近付こうとする過程の中で生まれたものが芸術というものになるのではないかと思っている。出来た作品のクオリティとか、手法とかっていうのはどうでもよくて、本来人間が生物として持っている自然的な要素を社会がもたらすプロセスの中で失っていく人々に対し、自然的要素を取り戻し、提示されたものが現実を生きる人々に生物が持つ本質的・根源的なものを呼び覚ます、火を付けるといった役割を果たす事に、芸術の意味や役割はあるのではないかという事。それは今自分の制作環境がデジタルであるからこそ強く思う。
 デジタルというのは絵画として見るとどうしても価値を低く見られがちだ。ただそれは絵としてのみ見ての評価であり、映像やインスタレーション、演劇といった様々な方向に幅を広げて考えれば、手書きの絵画とは全く別の角度での役割を持つことが出来ると思う。例えば今回のAlbino Morning Dreamの右側に蝶の羽が生えたペンギンが桜の花びらを散らしている。これは今年の桜。そして、左奥の方に咲いている桜は去年の桜。そういったリアルを確実に入れるという強み。フォトコラージュの強み。それが実際に鑑賞者に確実に伝わることはないかもしれないけれど、それが現実に起こった事の結晶と証明であり、潜在的な説得力になると信じている。合成という特性から「シュール」という風に見られがちだが、掘り下げていくと「リアル」をどれだけ形にしようかというのが自分の中にある。フォトコラージュというジャンルが、絵が描けない人間が手っ取り早く絵を構成するためのツールとして利用されるのではなく、フォトコラージュでしか生み出せないリアルを生み出し、役割を見出したい。このブログで今回は「体現」を心がけると書いた。そして実際、当日はこれまで書いた芸術の役割やフォトコラージュの役割について口にはしなかった。ここまで書いておいてあれだけど、これを口で説明してしまうと凄く野暮になってしまう。だからこそ難しいものがある。課題もあったし、発見もあった。



 Albino Morning Dreamの横に展示した3点。昼・夕・夜。Albino Morning Dreamと合わせて1日の流れが出来上がる。左からRend Jing Tostolotion(レンジン・トストローション)、Vobiro Vilronigal(フォビロ・ヴァイロニガル)、Teratmolis Camarkaim(テラトモリス・カマルカイム)。



 今年は物販も行いました。去年・一昨年は無料配布などやっておりましたが、タダでもらったものよりもお金を出して手に入れたものの方が大事にしてもらえるのではないか、という考えからです。末永く大事にしてもらえたらば本望です。去年メインで展示したMandara [Sufferings caricature]の布地プリント。今年は荷物隠しになってしまうという。これは過去の自分を踏み台にしてより高いところに行くという意味があったりしてどうのこうの...。



 今回のこの展示を福岡で再現するというような予定は残念ながらありません。個展も向こう数年はやらない姿勢なので。次の一手ももう考えてあるので、それに着手します。ただやっぱり相当時間が掛かります。それとは別でやらなければならない事が幾つかあるので、寸暇を惜しんで動くしかないようです。もっといいものを作りたいという思いを、もっといいものを作らないといけないという責任に変え、もっといいものを作ってやるという覚悟が必要だ。表面上はいつも通り、それが悟られないように振舞う。