AIDMAtic live Rain-bowのコンセプト・ストーリー

 今あるこの場所を守るんだ。痛みは伴うかもしれないが、全てを失った後ではもう遅い。生き延びるんだ。そのために必要な指標は揃っているんだ。進むんだ。道は存在しない。今から作るんだ。今ここから。上を向け。前を向け。何処に向かうのかを見据えろ。下を向いて道を作っても何処にも辿り着けない。上を向け。前を向け。見えるだろう。向こうには何が見える。そうだ。あれだ。


 お待たせいたしました。AIDMAtic live Rain-bowのコンセプト・ストーリーを書きました。例の如く長文となっております。最後までお読み頂けるとありがたいです。それではどうぞ。



これは「虹」を追う物語。



===============================================
 社会全体から見たら「手垢にまみれた成果」であったとしても、当の本人がそれを初めて手にしたのであれば、それは当人にとってとても価値のあるものだと思う。それは「手垢にまみれた成果」に対して新たな視点を生み出す。それは社会全体にとって「手垢にまみれた成果」ではなく、紛れもない「新しい価値」であるのだと思う。そしてそれは「手垢にまみれた成果」に組み込まれ、また新しい価値を内包する。社会は「手垢にまみれた成果」に新しい意義を手に入れる。発見である。


 「虹」って何だろうか。いつだったかは忘れたがそんな事を考えた事があった。虹だけに色々な答えがあると思う。子供のように「綺麗なもの」と感想を交えて説明する事もできる。または大人な考えとして、科学的な虹の発生条件やなんやらの説明。


 「虹」と「人生」を合わせて考えてみた。雨上がりに遠くに見える虹。上に書いたような二つの視点で考えてみる。大人の考えでいくと、虹は「今この場所から、あらゆる条件が重なった事で見える現象」であると。また子どもの考えでいくと「遠くに架かった七色の橋」。大人な考えを持つことによって想像力は失われていく。


 これは虹を中心とした考えです。そこには二つの立場が生まれる。前者は「今あるこの場所を大切にしよう」という考え。大人ですから、分かっているんです。虹は存在しない。そしてすぐに消えてしまう。刹那的に見えた虹の美しさに一時の安らぎを感じる。それでいいんです。何も間違っていない。正しいんです。しかしそれでは面白くない。


 子どもの考えは手がつけられない。子どもが子どもとして子どもの発想で言う分には可愛げがある。そして欲深い子はこう言うかもしれません。「あの虹をもっと近くで間近で見たい」「あの虹が欲しい」。しかしこの後者的な発想を子どもではなく、大人が持ってしまったら。人は笑うでしょう。静止させ咎めるでしょう。バカにするでしょう。そうですね。子どもの発想をする大人は「バカ」であるとしておきましょう。


 しかし考えてみて欲しい。人々は挑戦し、失敗し、成功してそれらを記録して語り継いだ事で文明は発展してきた。そうであるならば、前者としての考えは後者の失敗や成功の記録によって、知識として与えられたものだ。


 虹を掴みに行く。無謀な行動として映るでしょう。しかし当の本人は楽しくて仕方がありません。周りの説得は多少なりとも考えはしますが、自分の欲求がとにかく勝っています。欲しいのは虹です。そしてもう一つ。本当に虹を掴もうとする気持ちの裏で、手に入らないという「実感」も欲しているんです。失敗するという、知識としてはもう何の価値もありません。それは概念となって頭に染み付き、固定概念となって誰も再挑戦という選択を取らなくなります。


 しかし実感によって得られるものがあります。それは「智恵」です。未来のための。当事者にしか分からない事です。多くの人には行動と結果の2点しか伝わりません。しかしプロセスという「線」は当事者にしか得られない成果です。その時の思いや失敗の原因、試せなかった幾つかの方法、それをとらなかった理由などなど。そこで得られた「智恵」は社会において新しい価値であり意義のあるものであると私は思うのです。


 ここまで書けば、察しのいい方であればこれから書く内容が何となく予想できるかと思います。


 「虹」を欲っする事で手に入る成果、それこそが本作「AIDMAtic live Rain-bow」が語るべき内容となっています。それではまず、それぞれの言葉を分解していきます。


AIDMA」とはマーケティング用語です。「アイドマの法則」と言われています。消費者がある商品を知って購入に至るまでの段階プロセスのことを指しています。。
Attention(注意)Interest(関心)Desire(欲求)Memory(記憶)Action(行動)の5つです。その頭文字をとってAIDMA


ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/AIDMA


AIDMA」+「tic」でアイドマのような。

「AIDMAtic」+「live」でアイドマのような生き方・人生

それに「Rainbow(虹)」を付け加える事で、「虹を欲して生きる上で得る虹」
読み方は「アイドマティック・リヴ・レインボウ」となります。


 ここで言う「虹」とは比喩であり、人生の「目的」「目標」と置き換えて下さい。掴もうと前に進み、それを手にする逃すに関わらず、その「目的」ないし「目標」を追う事で初めて手にする、培われる「智恵」こそが何ものにも換えられない成果である。という考えです。ジャケットアートワークと比較しながら解説します。


 中央にある果物はドラゴンフルーツです。これは正直何でも良かったのですが、絵としてこれが一番綺麗だったのでドラゴンフルーツを使いました。これを「虹」「目的」「目標」として下さい。それを上下から手を延ばしているという構図。しかしこの手は同時に、上から下へ与える、下から上へ献上する、といった見方も出来ます。誰かに何かを与える力、自ら差し出す力。何かを手にすることと同様に「与える力」も成果の一つであるとしています。


 「虹」「目的」「目標」を中心として行われるもの、得られるもの。それこそが重要であるというのがこのEPのコンセプトの核です。それこそが「虹」だということです。全体に漂っているカラフルな色模様を見てください。「自分探し」の旅に出たものの、旅をして気付いた「自分」とは初めから自分の中にあったというものとも通じるかと思います。「虹」を追い求める時の自分と「虹」を得た後の自分。虹を中心としたこの物語は、やがて虹の定義すら変わってしまいながらも、それを受け入れて前に進むこと。得たものは確実に自分を強くする。


 あそこにあるんだと思っていた「虹」は存在しないのだと知る。それは元いた場所からただ与えられる事実を、情報として受け取ることで生まれるもの、得られるものは「バカをしないようにする」「バカをみないようにする」だ。これは極端な考え方かもしれない。「踏みとどまる」という守りの生存本能を増幅させる。それは過去からやってくる智恵に間違いはないのだけれど。智恵を与える者を賢人とした場合、その賢人が智恵を身に付ける過程は愚行だったのだとすならば、賢人は元々はバカだったのだ。そんな賢人が得る一番大きいものは何か。それは挑戦し進む者を後押しし、踏みとどまる者を認める包容力だ。何かを差し出すことは、何かを手にする事。それは自然の摂理だ。失ったそこだけ真空にはならない。空洞には大気の一部が流れ込んでくる。それはただの空気ではない。何処かへ行ってしまったものばかりに気を取られていないで、流れ込んできた空気に目を向けてみる事。きっとそれはそれは何もない空気なんかじゃなくて、これからのあなたに必要な何かだ。



 自分の中にある得られた「虹」を精査し、一つの形にすること。何物にも換えがたいそれはあなた自身を映す。誰にも同じ物は作れない、唯一無二の価値。それはあなたがこれから人々と社会と共生する中で必要な「鍵」だ。その「鍵」は何処かに綺麗に当てはまる事はない。しかし人々の心をこじ開ける事のできる確かな武器だ。それはあなただけの個性と捉えてもいいでしょう。正解なんかじゃない、そして無駄なんかじゃない。成功に導くための「智恵」であり「鍵」。そう、その鍵こそが「Garapagositic Lupin-key」。



===============================================


 以上がAIDMAtic live Rain-bowのコンセプトになります。確実に次の物語へと繋がっていきます。

 
 ここからはAIDMAtic live Rain-bowの制作秘話的なものを書いていきます。楽曲は4曲です。これは5枚のEPの中で唯一です。4枚目と5枚目は共に3曲ずつです。おおまかな構成としては1曲目の「Grewanse Yie Guuna」と「Titiscoberk Ninivanyz」「Aplozllo Hazaragath」「Xeniasmende Cotorvas」の3曲という形です。「おしおきだべさ〜」と「ドロンジョ様とあと2人」の関係だと思って下さい。


 10月頃までは「Aplozllo Hazaragath」は当初の構想には入っておらず、2曲目に「Rieam Vigandadaria(リーアム・ビガンダダリア)」という曲が配置されていました。時間軸的には後半3曲を作り上げてから1曲目の「Grewanse Yie Guuna」を作るというスケジュールでした。3曲出来上がって「さぁグレワンス・イ・グナを作るぞ」と開始したのですが、いい感じで進んでいく中でちょっとした違和感を覚えました。出来ている曲は最高なのに、何だろう。そして曲が出来上がってこう思うわけです。


「誰だお前は…」


 「Grewanse Yie Guuna」を作ろうと始めたのは確かなのだが、気付けば当初の計画は何処かへ行ってしまって全然違う曲が出来上がっていた。ただし出来は最高。トチ狂っている。しょうがねえなぁとその曲を組み込む事に。それがAplozllo Hazaragath。Rieam Vigandadariaが外れた要因は3曲の中で一番おとなしいから。それもあるのだけれども、実はこの曲のメロディがすごくいいのでもう一度5枚目のEPで使おうと踏んでいました。伏線とその回収である。そう考えていた事もあり、出番自体は後のほうにある。そしてそれぞれのEPが紛れもなく独立している方がいいのではないかと思うようになっていた。ネタを仕込むような狡いまねはしない。純粋に独立したEPにしたかったので泣く泣くRieam Vigandadariaは没となった。


 この制作過程からも分かるとおり、AIDMAtic live Rain-bowは前作Dramasochistic Bon​-​voyageのように作るべき曲をしっかり決めるのではなく、完全にノープランで曲を作ることを念頭においていた。これまで書いたEPのコンセプトを何度も頭に繰り返しながら、その考えに毒され取り憑かれた状態の自分が作る曲はAIDMAtic live Rain-bowになるんだと固く信じていたし、これまでコンセプトアルバムを作り続けてきた自分の「手癖」を信じていたこともあった。


 そして何より、後に控える2枚のEPは3rdアルバムを見据えての制作に入る予感しかしていなくて、特に5枚目のEPはアルバムの始まりの曲と終わりの曲が入る。構成は頭の中にある。それは言ってみれば「縛り」のようなもので、AIDMAtic live Rain-bowはその縛りを考えずに自由に曲を作る最後のチャンスでもあった。なので同時に実験的でもあり、可能性を拡げる事の一助ともなった。Mahoramatic Non-fictionにもDramasochistic Bon​-​voyageにもない発想や輝きを持っている。そしてここからより新しいサウンドになっていく予感もしている。5枚のちょうど真ん中に位置する3枚目のAIDMAtic live Rain-bowは折り返しであり、裏返りや鏡面反射といった特異点の役割を担ってくれた。非常に意義のあるEPだ。アルバムアートワークもこれまでと違い、一見とことんシンプルに落とし込んでいる。そしてEPタイトルがジャケット内に入っている。これは5枚のEPの中で唯一だ。ノープラン故に新しいことが出来た。そして自分の色はしっかり残した。「手垢にまみれた成果」に「新たな価値」を内包させた。AIDMAtic live Rain-bowは「智恵の果実だ」。



追記:Youtubeにて待機中だった動画を公開しました。リリースまでまだ25日ほどありますが、「AIDMAtic live Rain-bow」を全編公開します。本ブログのコンセプトと共にお楽しみ下さい。そして少しでも無料配布CDに繋がればいいなと思っています。


2018年12月10日リリース!!!
(。・ω・。)人(・ω・。)(・ω・。)(・ω・。)
===============================================


AIDMAtic live Rain-bow

01. Grewanse Yie Guuna 06:38
https://soundcloud.com/glow-defective-soldier/grewanse-yie-guuna

02. Titiscoberk Ninivanyz 03:42
https://soundcloud.com/glow-defective-soldier/titiscoberk-ninivanyz

03. Aplozllo Hazaragath 05:20

04. Xeniasmende Cotorvas 04:48

total time 20:30

Glow Defective Soldier Records 016


CD無料配布ページ
「AIDMAtic live Rain-bow 」と同時にご注文のお客様には、一括して12月上旬に発送いたします。11月末までにご注文のお客様にはリリース前にお届けする予定です。

https://glowdefectivesoldier.stores.jp/

Youtubeとamazonに対する傾向と対策

 今日は備忘録として書いておきたいことを書いておこうと思います。ネットをどう使っていくのかという話し。「Youtube」と「amazon」について。



 現在YoutubeにてEPの視聴動画をアップしているのはご存知の事と思います。知らないという方の為にもう一度貼っておきます。


ほらほらまほらほま〜(・∀・(・∀・(・∀・*)


ドラドラどMど根性o。(★・ω・)人(・ω・★)。o


 アカウントの有無に関わらず、今やなにかと人が集まってしまう超優秀ネットプラットフォームことYoutubeさんです。こちらに動画をアップしたはいいものの、城台が作る動画は所詮静止画なのです。それを14分垂れ流すだけのものに、人がどれだけ耐えられるか。すぐに目新しい動画は関連動画としてPCなら横、スマートフォンなら下に羅列されている状態です。何も知らずにこの動画に辿り着く事があるのかどうか分かりませんが、たとえそうだったとしても、最初から最後まで聴いてくれる人は「まずいない」とここで断言しておきます。


 Youtubeを利用する目的として、娯楽を求めてくる人。これが大半だと思います。その中でも若い層を掴んだのがYoutuber。と浅い知識で定義しておきます。それから過去の知識やコンテンツにアクセスしたい人。資料目的ですね。スポーツの試合やある番組の最高に面白かった部分、当時のニュースなど。


 音楽無料配信としてYoutubeにEPを丸々アップしています。ぶっちゃけた話し、CD無料配布には繋げたいと思っています。しかしフリーダウンロードには繋がる必要はないと考えています。EPの楽曲たちを聴いて欲しい。この作者の気持ち的には、媒体はもう聴く人各々が自由に選択していいと思います。ダウンロードが面倒ならYoutubeだけでいいと思います。そりゃあ、それでも各楽曲MP3やWAVで欲しいという人がいたら嬉しいです。しかし強制はしないと決めています。CD無料配布はジャケットデザインの色々を手にとってじっくり感じてほしいのが第一目的です。なのであまりつべこべは言いません。


 とりあえず何が言いたいか、何を目的としてやるか。これを考えましょう。
 まず、動画という名の静止画は最終的に聴いてもらうためのツールとして置いておきます。肝心なのはさくっと聴けてしまうコンパクトなもの。上に書いた通り、関連動画の誘惑は強い。それに惑わされずにしっかりと楽曲を聴いてもらう。それには2つの選択肢がある。


1.単曲ずつアップする。
 聴きながら関連動画に目をやる。Youtubeを使っているときによくやる行動です。そんな誘惑に弱い人間に誘惑だらけのネット画面。14分の動画なんて途中でポイして次に行っちゃいます。それを阻止するには、単曲でアップする。1曲の動画を作るです。早い話しがミュージックビデオを作る、になりますね。最近は映像技術が広くシェアされているのか、インディーズバンドのMVもクオリティの低いものを探すほうが困難なほどよく出来ています。映像技術を専門にしている人が作った動画に、静止画一発入魂を専門にしている自分が付け焼刃的にやって太刀打ちできるか。


2.動画は動画でももやもやさせる。
 結局のところ動画を作るで話しは尽きてしまうのですが、EPなりアルバムなりフル視聴動画と聞いてパッと頭に浮かんだのが下の動画です。


 アルバムのコンセプトアートを順々に披露しながら展開していくビデオ。これは俺にだって、と思ってもアートワークとして作った画像素材は各EP3〜4枚程度しかないのでかなり苦しくなりそうかな。逆に3〜4枚を使って推し曲だけビデオを作るか。


 推し曲に該当するのが、現在発表されている中では「Leoryphan Vistavkifco」「Eklepton thadd Pellugraw」「Grewanse Yie Guuna(今から)」がそれ。5〜6分なのでだいぶ苦しいか。課題が見えてきた。


 出来る事をこつこつとだよ、という声が聞こえてきそうですが、そんなんじゃここまで書いてきた内容が無駄になる。最初に書いた通り、誰でもほぼ際限なく無料で利用でき、誰でもほぼ際限なく情報と娯楽に溺れる事ができるYoutubeという超優秀ネットプラットフォームを使わないのは頭に虫がわいているとしか思えません。


ちなみに頭に虫がわいているは5枚目のEP「Bugfarewelltic Sun-Rises」で語ろうと思っているのですが、それはまた半年後ぐらいに。


 Youtubeという超優秀ネットプラットフォームを使わないのは頭に虫がわいているとしか思えません。もちろん動画を作るだけでなく、その動画をどう届けるのか、その動画を届けて何処に導くのか、最終的な着地点は何処か。それで双方幸せになれるのか、ゴリ押しと不快感を与えてしまった時点でその人はもう帰ってこない。戦略的であり、極限までナチュラルに。ナチュラルにやってるんだけど、「こすい感じに勝手に取られてしまってはどうしようもない」と、それを先読みして先回りすると本末転倒で、落とし穴にはまらないようにしていると田んぼに足突っ込んじゃうなんてそんな感じ。ああ、昔はそれで失敗して腐って、それを修正しないで次に頭を切り替える振りして別のやり方に逃げていたなぁ。


Youtubeについて感じている事はそんな感じ。わかってる。考えが12〜3年遅いのは。



 あとamazon。この前、宇多田ヒカルさんがリミックス曲を予告なくリリースしたんです。それが試聴したら最高にかっこよかったから、即効でamazon行ってMP3を買ったんです。1曲250円でクレカ支払いだからその場で最高の音源が手に入る。


 そこで思った。「amazonすげぇな」。日用品や食材は自力で買いに行くけれども、他の大きい商品はもうほとんどamazonに頼っている人も多いだろう。アカウントは作るけれども、簡単な登録で生きる上で必要なものは大抵揃う。しかもほぼ送料無料。定期配送も可能。レアな商品もマケプラで中古店や海外から取り寄せ可能。挙句の果てには音楽や電子書籍まで。生きる上で必要なものはほぼ揃っている。


 最近パソコンがおかしいのか、iTunesが壊れた。再度インストールしてもダメ。なので今は使っていない。配信限定シングルで欲しい曲があれば最近はamazonでMP3を買っている。本題はここ。これは別にiTunesレコチョクとかでもいいんだけど、欲しいと思った瞬間に音楽を手に入れるサイトとして、bandcampは弱いなと感じた。音楽ファン的にはもう馴染み深いサイトではあるけれど、一旦外を出てしまえばそうではない。amazonで買い物してるけど、たまたま楽天で欲しい商品を見つけた。アカウントを持っていない。作るの面倒。これと似た感じかもしれない。音楽は音楽で決まった場所で決まった方法で入手したい。それで手順が少し違うと面倒くさい。その作業を強いられると踏んだ時点で利用者は背中を向ける。これは実体験だ。そうされたんじゃない。そうした事があるんだ。自分の実体験です。自分が面倒だと思うことを人に押し付けていいわけがない。難しい問題です。


 音楽配信は一箇所でデータを登録すれば、仲介業者的なところがamazonなりiTunesなりレコチョクなりに一斉に配信してくれる。悲しいかなフリーダウンロードという機能はない(多分)。bandcampはbandcampで独立している。主流の音楽配信サイト各種では取り揃えられない隠れた才能がたくさん眠っている。コアファン向けのコンテンツなのかもしれない。しかしフリーダウンロードの機能を備えているのはここしかない。


 人それぞれ音楽を手に入れる場所を決めているのかもしれない。音楽配信のサイトや、行きつけのCDショップ。タワレコ派、HMV派、TSUTAYA派。地元の個人店舗派。様々でしょう。認知度を獲得するためには大手サイトに置かれている状況を作ることは大事だと感じた。しかし自分は現在のEPリリースプロジェクトはフリーダウンロードと決めた。そして書かなければならない。まだ最終着地点の構想は固まりきっていないが、ちょうど今から1年後までは、有料のグッズを一切作らない。ステッカー・ポストカード・缶バッチ・Tシャツなどなど。無料配布CD達だけを抱えて勝負する。CD無料配布ページは置いておく。しかしどこかのギャラリーとかその他の場所で置いてもらうという事はしない。徹底的に手渡しだ。自分の弱点「喋り」も同時になんとかしないといけない状況に追い込む。


 amazonで配信音源を買ったことでこんな考えが浮かんだ。でも自分で決めた事だ。超優秀ネットプラットフォームYoutubeは大いに利用すべきだ。しかしもう一つの超優秀ネットプラットフォームamazonは使えない。戦い方を吟味して対策を練らねば。


Too Proud featuring XZT, Suboi, EK (L1 Remix)

Too Proud featuring XZT, Suboi, EK (L1 Remix)



こんなことで2時間も使ってしまった。


バカヤロウ



忘れないように
次回EP「AIDMAtic live Rain-bow」
2018年12月10日リリース!!!
===============================================


AIDMAtic live Rain-bow

01. Grewanse Yie Guuna 06:38

02. Titiscoberk Ninivanyz 03:42
https://soundcloud.com/glow-defective-soldier/titiscoberk-ninivanyz

03. Aplozllo Hazaragath 05:20

04. Xeniasmende Cotorvas 04:48

total time 20:30

Glow Defective Soldier Records 016


CD無料配布ページ
「AIDMAtic live Rain-bow 」と同時にご注文のお客様には、一括して12月上旬に発送いたします。11月末までにご注文のお客様にはリリース前にお届けする予定です。

https://glowdefectivesoldier.stores.jp/



ε(*´・∀・`)з゙βуёβуё”ε(´・∀・`*)з

インプットとアウトプット

 予告通り数日のスパンでやってきましたよ。活動再開してすぐに声をかけてくださる方もいて嬉しい限りです。今の自分の状況・これからの自分をもっと簡潔に伝えられるようにしていきたいです。あまりにも複合的で相乗効果を狙っているところもあり、一言で目標を掲げられないのがもどかしいです。それでもなんとか前に進めるだけの道筋が出来始めているので逸る気持ちを抑えながら、じっくりと的確に事を進めて行きたいと思います。


ちょっとしたお知らせを書いておきます。



1.EPのレーベルデザインを一新しました。

 これまでレコード型のCD-Rで作っていたのですが、今後は全面印刷のCD-Rにて対応させて頂きます。無料配布のCDは全て自前で印刷・カット・折り、録音・盤面印刷を行っています。しかし、これから大量生産してより多くの方たちと出会い、CDを手渡ししていく事を考えると、これまでと同じ作業ではとても生産が追いつきません。


 というわけでジャケット印刷は外部に発注し、各EP200枚程度ずつ印刷して、自分の作業は録音・盤面印刷・詰め合わせるに特化しようと思います。予算の関係上、Mahoramatic Non-fictionを先に発注しました。先にこれだけ大量生産できます。数日遅れる程度ですが、Dramasochistic Bon​-​voyageとAIDMAtic live Rain-bowも生産体制に入ります。


2.次回EP「Garapagositic Lupin-key」のジャケットアートワークが絶好調。

 AIDMAtic live Rain-bowはもうフリーダウンロード音源のアップロードが終了し公開を待つばかり。CD生産もあとはジャケット現物の到着を待つばかり。というわけで製作に関しては次のEPに向けて動き出します。そもそもなんですが、Dramasochistic Bon​-​voyageの制作中にAIDMA〜と一緒にちょっと進めてはいたんです。行き詰ったので、別のことをやろうと思いまして。それで土台は出来上がっていました。まぁ、間隔があいていて方向性がより見えている状態だったので一から解体したり組み替えたりしました。


 まだ完成していません。もうちょっと詰めるところがあります。といいながらまた別の形になったりする可能性もあるのですが。それでも個人的にキてるのでこうして途中段階を公開してみました。これから制作過程をみなさんと共有していきたいなと思っています。これは城台が辿る人生の道筋であると同時に、みなさんとの物語だとも思っています。


 レコーディングは1ヵ月後。それまでちょっとアートワークデザインを進めながら、インプット期間にしています。とにかく観ようと思っていた映画をみようと。下記に観た映画とかなり適当なレビュー。


「グレイテスト・ショーマン」
ストーリーがド直球すぎて今の自分と共鳴して泣いた。「君の名は」
今更なんですが、やはり時流を知るのは大事だなと思い観ました。こんなにあれこれ言いたいという気持ちにさせられるのは久し振りでした。拡散・共有が連鎖して世界的に売れたってことなのかな。「君の膵臓をたべたい」
泣いた。まじで泣いた。傷物語3本」
化物語はリアルタイムで見ていて、偽物語で脱落してしまっていた。それ以降は見れていない。でもストーリー上、前日譚に当たるこれは見れるしずっとみたいと思っていた。本当に素晴らしかった。ストーリー、演出、音楽。何よりもう何年も前に見たきりだった「つばさキャット」の内容がフラッシュバックしてきて泣いた。あららぎ君の罪は重い。


 まだこれだけなんですが、手元には満を持して「スターウォーズEP8」がある。嫌でも評判が耳に入ってきていてね。同時にいい評判が耳に入ってきた「ブラックパンサー」と凄く悩んだ。


 映画観ると言いながら少なくね?となりそうですが、それもそのはず。最近レンタル開始した海外ドラマの「ゴッサム・シーズン4」を観てるんですね。唯一これだけ追いかけていたので優先的にみてます。

 これが終わったら、いよいよあれを観ようと思います。昔はみんなが絶賛しているものは敢えて手を出さないを信条にしていました。しかし今は違う。多くの人に受け入れられているものとは何だろうという疑問と興味がわいています。普通なら喜んで手を延ばすべきもの、これまで頑なに手を出してこなかったもの。


新世紀エヴァンゲリオン


というわけで楽しみです。外の扉を開くようでいて、実は内の扉を開くんです。




あと今日の朝、ある動画を聞いているだけで泣いた。なのでみんなにも見て欲しい。

新世界

新世界



 最後までありがとうございました。実は来年の「1月13日」にライブペイントの予定が入りました。これは詳細決まり次第ご報告させて頂きます。正直なところ、画材を揃えきる自信がありません。なのでかなり変化球を投げます。そしてCD無料配布。楽しみです。


ε(*´・∀・`)з゙βуёβуё”ε(´・∀・`*)з

 

「これからの事」とAIDMAtic live Rain-bow情報解禁

 語弊も誤解も恐れずに、これまで自分がいた世界は自分を守ってくれたかけがえのないエデンそのものであった。しかしそこに居続ける事はエデンを破壊する。そしてそうでなくともエデンは朽ちていく。そうなったとき。そう思っている自分に何が出来るのか。そして何がしたいのか。羽化したてでベトベトな身体で誰と渡り合うのか。


 上記内容が「なんのこっちゃ分からん」という声が喉下まで来てもどうか飲み込んで下さい。この流れは名残り惜しいですが今日で最後です。活動締結から活動再開までのこれまでを振り返るブログは今回で最後です。今日はこれからの活動とビジョンについて書いていきたいと思います。


 まず、ブログではこれまでの事をしっかり書きたいという思いがあったのでそちらに集中していました。しかしツイッター、インスタグラムのSNS上では既に次の展開のための情報を少しずつ出していっていました。まず直近で大きなアクションとしてはコレでしょう。


 3rdEP「AIDMAtic live Rain-bow」をリリースします。ほぼほぼ全ての作業が終わっております。量産に向けての準備をこれから進めていきます。リリース日は本当にさっき決めました。ここにぶつけるにはスケジュール的に無理かなと思っていたのですが、いけそうなので確定させます。


2018年12月10日


 はい。5枚リリースする3枚目のEP。ちょうど中間であり折り返し。そして活動としても本格的にそして新たに歩を進めていくに当たり、もうこの日しかないだろうという日にち。そう、城台さんの誕生日です。そしてこれまでブログをせっせと付いて来てくださる方には察しがついているでしょう。私はその日31歳になります。ビックリですね。しかしこれは現実です。なにをモタモタやってたんだと。しかしこれが城台の全速力にして最速。どんな人生を運命を宿命を享受してきたかとかを考慮しようが無視しようが逃れようのない事実。31歳です。無理矢理こじつけるなら30から抜ける・超える、その先。納まりの良さより、スタートラインを示すより、走り出した絵の方が引き込まれるから、これでいい、これがいい。


 コンセプトはまたとんでもない長さになる予感しかしていないので次回以降にまとめます。ちょっとマインドマップにしただけでドエライ内容。乞うご期待。


以下、EPの概要になります。





AIDMAtic live Rain-bow

01. Grewanse Yie Guuna 06:38

02. Titiscoberk Ninivanyz 03:42

03. Aplozllo Hazaragath 05:20

04. Xeniasmende Cotorvas 04:48

total time 20:30

Glow Defective Soldier Records 016



 前2枚のEPが14分であったのに対し20分。そして前作が2曲に対し4曲。このボリューム感。実はインスタの方では収録曲を先に公開していたのですが、そのときとは曲目が変わっています。それもコンセプトを語る際にまとめて書きます。制作秘話の一つです。


 名前の読み方「グレワンス・イ・グナ」「ティティスコベルク・ニニバニス」「アプロスロ・ハザラガス」「ゼニアスメンデ・コトルバス」。ヤバい。


 Youtubeには動画を既にアップしました。公開は来月になってからですが、先に作ってしまったのでそのままアップしました。もうひとつアップした理由があるのですが、既にアップしているEP2枚の動画ですが、動画制作はまだ不慣れなもので、どれぐらいのサイズをアップすればいいのか分からなかったため、アップした動画の画質がかなり荒かったことが気になっていました。それでもう一回ゼロから作ってサイズの大きいデータをアップし直しました。全画面表示にしても下のクレジット部分までしっかり見えるし、何よりも最終的にはグラフィックデザイナーと名乗る人間として、ビジュアルがしっかり見える形でないと信頼性に欠けると踏んだので、パソコンのスペックに合っていない仕事ですがやっておいて良かったと思います。何事もトライ&エラーで即行動できれば好転していくんだなと思います。


めちゃくちゃ綺麗になりました(・∀・(・∀・(・∀・*)


めちゃくちゃ綺麗になりましたo。(★・ω・)人(・ω・★)。o



 soundcloudのアカウント内に新曲「Titiscoberk Ninivanyz」をアップしました。このブログ記事を打ち込みながら、情報解禁したからこのタイミングで1曲まるまるあるといいなぁと思い、急遽アップした次第です。一番シングル曲感があるなぁこいつ。こいつが何者で何を担っているのかも今度書きます。


Titiscoberk Ninivanyz
https://soundcloud.com/glow-defective-soldier/titiscoberk-ninivanyz



 ここで宣言しておくことがあります。その次の4枚目のEP「Garapagositic Lupin-key」は3月〜4月にリリースします。AIDMAtic live Rain-bowが4曲で20分なのに対し、3曲で1曲のような構成で10分未満のEPになります。ゴリゴリです。レコーディング開始までにゴリゴリとは何かを自分の中にしっかり定義づけしていきたい次第です。レコーディング開始日時は12月11日からです。3を超えたその先の自分が作るべき2に潜む霧の正体を暴き提示する。何も恐れるな。あくまでも自分の欲求はニーズなのだと自覚し続ければ何も怖くない。



 Mahoramatic Non-fictionのブログの時に書きそびれた事がありました。現代のテクノロジーに感嘆・感涙・激賞・大喝采な内容なのですが、ダブプレートを作りました。「ダブプレートって何?」とお思いの方おおいと思います。下記URL先に飛んで下さい。これまた未来に向けた素晴らしい世界が広がっています。


https://cutnrec.com/


あなただけのオリジナルレコードを1枚からオーダーメイド


 なんという美しい響きだ。凄い世界が広がっています。何の話かというと、偶然見つけたのですが、今回のEPはCUT&RECさんでレコードを作ってもらっています。あくまで個人用なのですが、これは夢のある企画だと思いませんか?もちろんそういった紹介もしたいのですが、今回はCUT&RECさんでオーダーしたMahoramatic Non-fictionがCUT&RECさんのサイトで紹介していただいたというミラクルが起こったという事です。



☆ぁ━(_ _*(・ω・*)三(*・ω・)*_ _)ぁ━☆


サン!ハイ!|。・ω・)ノ (・∀・(・∀・(・∀・*)サーンキュー♪


 これからの予定ですが、動画を1本作ろうと思っています。こうして文に起こしてはいますが、実際に話してみようと。音声しっかり拾ってくれるかなとか不安がよぎりながらも、カメラ目線のアー写を撮ってしまった事で次に自分をさらけ出す方法は何かを考えた時、喋る自分だなと。作品だけ出して作者が姿を現さないなんてそんな不条理でまかり通る社会ではない。まかり通るんならより先へ行けるかもしれない。しかしYoutuberという存在が既に世界を変えた後のこの世界でそれは後手でしかない。じゃあやらないのか。そんな死亡届を出さずに年金を受給し続ける人生に匹敵する愚考。生きよ。


 大分ふざけてますね。最後に5枚のEPをリリースした後の3rdアルバムについてですが、今からちょうど1年後、ドデカいアクションを起こします。見ていて下さい。それまでにより多くの人にEPを手に取ってもらう必要があります。世界がひっくり返るような事ではないかも知れない。でも世界はひっくり返ります。今にひっくり返ります。その変化に対する生存本能からくる野生の勘です。


乞うご期待(n╹ω╹)η


 連続した長文濃厚ブログにお付き合い頂きありがとうございます。連日の投稿はこれで終わりです。これからは数日に一度まとめて更新します。活動の進捗状況や自己啓発や生き残りをかけたビジネス書的サバイバル術の掲載など多岐に渡ると思います。何に特化したブログとかではなく、城台一人を中心にそこにスポットを当てた生き様の軌跡です。人間、一つのことをして生きてはいけない。一つのコミュニティだけでは生きてはいけない。いくつもの顔が必要だ。四の五の言わずにやるだけ。


ε(*´・∀・`)з゙βуёβуё”ε(´・∀・`*)з

Dramasochistic Bon​-​voyageのコンセプト

 素晴らしい世界は存在する。それは何処にでも存在する。しかしふとした瞬間にふっと消えてしまうものでもある。信頼によって紡がれる双方の結びつき、ただその空間が心地よくて心と貢献を怠れば、それはやがて消えてゆく。今まさにそこに立っていて、その不安が暗雲となって心を覆いそうになったのならば、行かなければならない。変わらずそこにいてもいいのだけれど、変わることが出来なければその世界はなくなってしまう。行こう。行こう。行こう。何処へ。何処へ何処へ何処へ。



 上記内容が「なんのこっちゃ分からん」という方、書き出した筆者自身も思っています。あなたの感覚は間違っていない。正気を取り戻しました。そのまま下にスクロールして大丈夫です。「なんのこっちゃ」てこの流れ何回目だよ、とお思いの方、毎度おおきに。そのまま下にスクロールして今宵もアドレナリンシャワーの脳内麻薬で共にクダを巻きましょう。




=======================================


 Mahoramatic Non-fictionは当初6曲構成、後に3曲構成となった経緯は2個前のブログで書いた通り。Leoryphan Vistavkifcoが過去最高傑作として産み出されてしまったが故に、余計なものを完全に排除した、もうこれ以上削れないところまで削りきった状態に持っていくためでした。苦渋の選択の末に脱落してしまったのは次の3曲。


「クークネガ・ヒーズネー」
「ホフスキン・ミモリザ」
「アルコーゲン・カリカー」


 あえて書かなかったのですがこれらをボツにする際、別の思惑がありました。こいつらはまだ延び代がある。だからリブートさせよう、と。そう、端からダブルEPのように脱落させるつもりは毛頭なかったのです。ちょっと曲を作ることに慣れ始めていたのか、謎の自信に満ちていた。


 3rdアルバムを作ろうという計画を前作からぼんやりと構想を練っているのですが、3rdアルバムにちなんで、この時は3枚のEPを作ってそこから1曲ずつ選抜して戦士を輩出して、プラス新曲3曲をあわせた6曲で、3尽くしに3の倍数という3まみれのアルバムを作ろうと考えていました。言うてもそんな大量に曲は生産できないだろうと高を括っていた。前回のブログに書いたように、城台はまだこの時は吹っ切れていませんでした。何を思ったか、まだポテンシャルが上がり切っていないんだと勝手な言い訳の下、もっとテンションを上げなければならないと没入という言葉を欲しいままにのめり込んで行っていたのでした。


 EPタイトルですが、元々は「Lovers Tempest(ラバーズ・テンペスト)」にしようと思っていました。前作の音像をいうなれば「全トラック=全プレイヤー」だったわけです。全部の音が本気でビヤ〜〜〜っとなっている。もうそれぞれの音が人格を持って挑んでいるような。それとは対照的に、

「出るところでは出る。引くところでは引く。それはまるで愛の様に嵐を紡ぐ“Lovers Tempest”」

 なんてコンセプトで挑もうとしていました。上記のような文が出来てしまったので、インスタのストーリーに「厨二文章を極める」なんて予告を流す始末でした。まぁそれはすぐにどっか行ってしまうのですが。これは今年の1月頃だったと思います。しかし2月にはそんなものどうでもよくなるぐらいのタイトルが突如降ってきました。


「Dramasochistic Bon-voyage」
ドラマゾヒスティック・ボンボヤージュ

「Drama+Masochistic」
「ドラマ+マゾヒスティック」
「演技+いわゆるドMのマゾ」
それに「Bon-voyage=(航海のときに使う)よい旅を」


 「ドラマ+マゾヒスティック」はですね、前回のブログで書きました、城台の仕事ぶりが残念極まりないという状況から。やっぱり表には出せないんですね性格上。しかし内心「だーくそっ」とか「ちょっ待っとけやー」「やってやんよチクショー」とかあるんですね。しかしやってもやっても仕事はダメダメのまま。そこからきています。


 EPタイトルは一気にズドンと降ってきました。ふと自分を俯瞰した時に、そのタイトルと自分の状況が全くもって一致していることに気付きました。「だーくそっ」とか「ちょっ待っとけやー」「やってやんよチクショー」とかっていうのは、もしかしたら究極的に突き詰めたら「演技」なのかなって思ったりしました。打たれまくってもへこたれずに挑み続ける。スポ根です。そんなもの男なら誰だって持ってるものだと思っていました。問題はそれで自分が前進していないこと。「チクショー」があるだけでそれをバネに出来ないもどかしさ。


 ここで城台が7月頃にDramasochistic Bon-voyageリリース前にインスタにアップした文章を転載します。どこか抽象的で詩的な文章ですが、前回ブログで自分の状況を語った今ならまた違った見方が出来るとともに、タイトルとコンセプトが一気に飲み込みやすくなると思います。


ではどうぞ。


=======================================

鈍重な精神は、鞭打つ事でしか前に進めないのなら、たとえその痛みが悲鳴を上げる程のものであったとしても、そうする事でしか前に進めないのだから甘んじて受けよう。そんな己の軟弱さを受け入れて前に進む事。それがDramasochistic Bon-voyage。


他人の嘲笑を受けながらも、ウルセェやってやんだラァと啖呵を切る事。目の前の障壁があまりにも高く、無理を承知で飛び込んで火傷して、それでも何度も何度も果敢に飛び込み続ける意志。そんな己の愚直さの裏にある進歩には届かない現状維持の行為を誤魔化し、前にだけ視線を向け続ける事。それもDramasochistic Bon-voyage。


叱責にまみれ、それでもめげないそれだけの根性しか持ち合わせず、後退はしていないと失敗をバネにしきれない及び腰の穀潰しの開き直り。それもDramasochistic Bon-voyage。


誰が口にしたのか、Dramasochistic Bon-voyage。自身を俯瞰するもう一人の人格。そんな大層な代物ではなく、心の熱を失念した自分自身に他ならない。


鞭打たれながら前に進む自分に自惚れ、誰よりも強固な精神力を持ち合わせていると偽り、その実、他者の先導無しには何も出来ない愚鈍な屍。とんだドM根性と一丁前な強がりという演技(ドラマ)に興じるクソナルシシズム。そうしてこれまで生きて来たのだから、それでしか生きられないのだから。


これからの航路を進むにあたり、今一度、己の残念さ加減と対峙しなければならない。痛覚に直接触れ、握りツブす。炎症を起こし、冷めきった精神を灼く。自身を俯瞰するもう一人の人格という大層な代物ではなく、心の熱を失念した自分自身にもう一度火を灯す。それが自身を先導する灯りになり、その先を進む松明となれば何かが変わろう。


Dramasochistic Bon-voyageとは、その言葉自体との別れを目的とし、そうして好転したこれからの人生を迎える事が出来たなら、それはMahoramatic Non-fictionとなる。


その先の景色の中で一際美しいものと出逢い、その手で掴もうとする事。それがAIDMAtic live Rain-bow。


それはまた、次の物語。

=======================================



 内容が混同しそうなのでEPのコンセプトについてのみ書きます。こうなって来ると冒頭に書いたあの文章も大事なことを書いている気がしてきました。Mahoramatic Non-fictionで「人に生かされている自分」を自覚し、「自分も誰かを生かす力が欲しい」と熱望し、「なんでオレはこんななんだッ」と憤る。この3つ目こそがDramasochistic Bon-voyageが語るべき、担うべき部分であると。自分の弱さを叩きつけ、皮膚を越えて神経・痛覚を灼いて「生への渇望」を痛感すること。


 当時、と言っても半年ほど前ですが、Mahoramatic Non-fictionという言葉を使うのが早かったのではないかと思う時期が少しあったように思います。今は考えがまとまり、出発点であり着地点であると認識できているけれども。Mahoramatic Non-fictionというタイトルに、「大口叩いちゃったなぁ」という思いがあったのだと思います。どの面下げてどの口が言うんだよ。もっともです。しかし掲げてしまったものに追いつこうと自分を奮い立たせる役を担わせるには絶好の燃料だと開き直っていました。その燃料で自らを灼くことばかり考えていました。


 自家発電の出来ない性質。根本的にはそうなのだろう。「だったらしっかり未来を見据えて行動している人の下にいればいいんじゃないの?」それも一つの選択、一つの人生でしょう。しかし気付いてしまった。冒頭に書いたように、生かされているだけではいつかそれを失ってしまうと。強くならなきゃいけない。誇りは誰かに誇れなきゃ意味がない。削れば削るほど、掘れば掘るほど見えてくる。それは本音であり生存本能と優先順位。自分が何者なのかが見えてくる。建前に包まれた裏側の本音。痛覚も灼かねばならないが、体表を覆う繭や膜を焼き尽くさなければならない。空気の温度を上げ、鼻につく煙を立てる。自分に与えられた役割と行使する方法を探り当てる。出口の方に煙が流れていく。今までずっと吹いていた風にようやく気が付く。


 しつこい感じが出ていますね。でもそういう事だと思います。愚鈍さを軽蔑し差し引いた先での生への執着。自立への第一歩。その思いを抱きながら、そう、目の前にある曲に全精力をぶつける。それは楽曲を介して自ずと滲み出てくるのだと信じて取り組んだ。


 「アルコーゲン・カリカー」は「Eklepton thadd Pellugraw(エクレプトン・サッド・ペルーグラウ)」に改名し、総トラック数120前後という鬼楽曲となった。終盤、城台自身の叫び声が録音されている。生への渇望にはそれしかなかった。「ホフスキン・ミモリザ」は名前こそそのままだが、当初包容力を持った優しさは消え失せ、没落したものがもう一度立ち上がろうとジワジワ沸き立つ様を克明に刻み付けた。「出るところでは出る。引くところでは引く。それはまるで愛の様に嵐を紡ぐ“Lovers Tempest”」などというコンセプトは何処かへ消えていた。気付けば持てるもの全てをぶち込んだ。自分を痛めつけ内面を見つめる内容故の暗さは目立つものの、次回以降で突き抜けるためには必要な作業と捉えた。Mahoramatic Non-fictionにあった前へ進む衝動性よりも、内に潜むマグマを確認・呼び覚ますことを目的とした楽曲は、前作よりもプログレッシブな側面を如実に強めた。


 収録曲はこの2曲です。それだけで事足りると踏み「動の中の静・静の中の動」を表現できているようにも受け取れます。至高という言葉も念頭にあったかもしれません。そんなあらゆる要素が垣間見えるEPになりました。


 ジャケットデザインに関してですが、かなり直接的な表現に落とし込めたなと思います。楽曲のノリともリンクし、コンセプトととも密接にリンクしている。グラフィックデザイナー冥利に尽きるものが出来たんじゃないかな。今はまだ一人だけれど、こうして複数の意思やチャンネルが融合する未来があって欲しいと思う。そこへ進むための松明も得たし、心の熱は取り戻した。


旅が始まる。


Bon-voyage...




Dramasochistic Bon​-​voyage

01.Eklepton thadd Pellugraw 6:52

02.Hohzkin Mimoriza 7:24

total time 14:16

Glow Defective Soldier Records 015


FREE DOWNLOAD

https://glowdefectivesoldier.bandcamp.com/album/dramasochistic-bon-voyage

CD無料配布ページ

https://glowdefectivesoldier.stores.jp/

Youtube全曲視聴


 ここまできて、そういえばもう1曲のボツ曲の「クークネガ・ヒーズネー」はどうなったの?というコアな方がいらっしゃったら飛び上がるほど嬉しいです。Youtube動画の冒頭にGlow Defective Soldierのロゴと一緒にボコボコいう音が入っているのですが、あれクークネの断片です。あれこれから動画を配信する際に絶対付いてくるから一番出世したかもね。


 またしても長々とありがとうございました。次回からは通常営業ができそうです。これから会う人たちにEPのコンセプトやこれからのプランをお話しする機会を設けていかなければなりません。しかし全ての人に全ての内容を届けるのは難しい。そんなときにこのブログ記事が役立てばいいなと思います。



ではでは_(°ω°」 ∠)_三_(°ω°」 ∠)_三


ε(*´・∀・`)з゙βуёβуё”ε(´・∀・`*)з

Mahoramatic Non-fictionのコンセプトと城台による「しくじり先生」

 Mahoramatic Non-fictionに心血を注いでいたのには訳がある。何かに全てを捧げようとしたところで無理な話しで、全力で何かに取り組めばハイにはなってもどこかで限界が来る。自分はそれが早いから、何かに行き詰ったらすぐに別の何かに手を出す。それを繰り返して何度も正気を保つための作業を繰り返していたように思う。何が正しかったのかはまだ判断がつかない。これからやっと自分の選択が、掴み取った糸が正しいものであったかが証明される。たとえ間違った選択であったとしても、正しかったと証明する。それが私が進む道であり、目標・着地点。


 上記内容が「なんのこっちゃ分からん」という方も多いでしょう。これは現在の時間軸(2018年11月7日)にいる城台の独白です。前・後編に分けたこのブログですが、前回の分をまだ見ていないという方、今日はリンクを貼りません。この記事をどうか最後まで読んでもらってからご移動をお願いします。



 さてさて、「Mahoramatic Non-fiction」とは何かなのですが、まずこのタイトルを分解しましょう。「Mahorama」とは「まほろば」の事であり、「素晴らしい場所」「住みやすい場所」という意味の日本の古語。「まほらば」「まほらま」「まほら」ともいう。 (ウィキペディア)


まほろば」→「まほらま」→「Mahorama」になります。「〜のような」→「〜tic」。「まほらまのような」→「Mahoramatic」。


そして「Non-fiction」。ノンフィクション(英語:non-fiction) とは、史実や記録に基づいた文章や映像などの創作作品。また、その形態。 (ウィキペディア)



 要は「今いるこの世界を肯定する」になります。いきなり飛んでしまっている表現ですが、これまで生きてきた中で出す答えのひとつとして最終的にこの言葉に到着しました。月並みな内容ですが、人は一人では生きていけない、互いに支えあいながら生きている。その輪を広げていきながら成長する。上にも横にも伸びていく。一人では限界があっても、人と繋がることでその可能性は無限大。それに気付かされ、その輪の中に自分がいる感覚、自分も延びて生きたいし、誰かの何かを延ばして生きたいと考えた。


 とはいっても、自分が誰かの何かになれているのかは分からない。生かされ、輪の中に入れてもらえているという感謝。それが「Mahoramatic Non-fiction」。まだ自分が誰かの手を引きながら未来へ向かって走っていくようなビジョンは見えていない。これを皮切りに、そうなりたい。そうなるんだと自覚した段階です。


 事実、全力で取り組みはしたものの、まだ全てを出し切れていない感じが、見事に後の「EP5枚連続リリース」のコンセプトに繋がっていく。「Mahoramatic Non-fiction」は出発点であり、最終的な着地点にしたいと思うようになった。もう一度「Mahoramatic Non-fiction」という言葉を使う時、自分は誰かの手を引いて共に素晴らしい未来に突き進んでいる時だと。


 「素晴らしい場所」は存在する。世界遺産とか。そうではなくて、人との関わりの中でお互いに共有している想いがあれば、何処でだってそれは素晴らしい世界なのだと思う。そう、素晴らしい世界を作り上げるのだ。始まりは抑圧からの開放。締め付けていたのはダレでもない自分自身だった。不思議と誰からも拒絶されることなく迎え入れられてきた自分が、勝手に作った限界の壁で他者との交流までも絶ってしまった。もう一度あの時とは違うやり方で、もう一度やってやるんだ。よく分からない部分はルールに則ってやっていてハミ出しもせずおとなしくしていた。


 あれ本当に無駄だったなぁと。時間を無駄にしていた。よく時間は有限というけれど、本当に削られていくんだよ。色々なものが。タイムリミットという言葉がいかに恐怖をもたらすワードなのかを痛感する。そして誰も悪くない。全て自己責任。日本だけでも1億3000万人いるのだから、取り残されたものを救うために救命ボートは止まってくれない。ましてやUターンなどするはずがない。それでボートの人たちに危険が及ぶのなら、「どうぞ先に行ってください」と誰しもがそう告げてしまうだろう。アポトーシス。細胞の自滅である。



 話しが若干逸れましたが、逸れたついでにこのプロジェクトを始める発端で大事なことを思い出しました。「Mahoramatic Non-fiction」を作るとき、自分に問うた事。


「まったく金にはならず、人のためにもならず、自分ひとりのためだけに何かを作るのだとしたら、何がしたい?」


 制作から離れて、それでも心の中で何か終わらせきれない自分がいて、それを自分に一つだけ問い正した。自分の答えはこうだ。


「アルバムが作りたい」


 アートなんてどうでもいい。昔から、最初から、作りたいものはこれだけだった。自分で曲を作ってそれをパッケージングするトータル・コンセプト・プラン。やがて自分の曲は金にはならないと区切りをつけて、グラフィックデザイナーとして誰かの役に立とうとしていたこと、トータル・コンセプトに力を入れすぎて誰も介入できないほど作り込んでしまって、結果的に作品を殺してしまっていたこと。いつしか自分でも作りたいものの形が変わってしまっていることに気付けなかった。それで誰が自分に手を差し延べてくれるだろう。戦い方と、戦う場所を間違えた。求められてはいないのに、そうすべきなんだろうと勝手に突っ走って気付けば荒野で立ち尽くしていた。


「アルバムが作りたい」


 誰のためでもない自分自身の為に。ただの慰めにしかならないかもしれない。それで自分に何が出来るのか、どこまで行けるのかをみる最後のチャンスだと思った。自分の人生にトドメを刺すつもりで、アルバムを作りたい。自分のフォトコラージュ作品がある種のコンセプトや強みを意識しすぎたせいで、本来作りたいと思っていた純粋にやりたいと思っていた表現と違うように感じていた。他人の評価軸を意識し、誰もしていない表現領域でそこに特化すれば、そこのスペシャリストになれる。その考えがどんどん自分を固執させてきた。


 Mahoramatic Non-fictionのアートワークはその反動が大きい。活動を始めた2010年当初はフォトコラージュの何たるかも分からず、自分で写真を撮りまくってそれをコラージュしていた。それを見ていた人はこう言う。


「全部自分で撮ったんですか!!?」


 それが当然なのだろうと思っていた。フリー素材という概念を知ることもなく、そうするものなのだろうと勝手に決め付けていたから。またこうも言われる「大変でしょう?」「凄い」「とても真似できない」自分はそれが当たり前だと思っていたし、当時ちゃんとしたアートワークが作れるようになって楽しくて、それが苦だと思わず、当然のようにやっていた。無意識下で他者との差別化ができていた。当時外に向けて作品を発表して、初めて生で人の意見を聞いて、嬉しかったのも当然ある。それに乗っかってしまったのが選択の誤りだったと今は思う。辿る道が違えば正しい選択だったのかもしれない。しかし結果と心象模様をみれば明らかだ。優れている事は必ずしも正しいとは限らない。


「みんなやりたい事だけやって生きていければ苦労はないよ」なんて言うが、それを根本から否定してしまったらその時点でエンターテインメントは死ぬ」


 もっと色々なものを作りたかった。「色々なものに手を出すと作者の特色が分かり辛くなるよ」そんな言葉に踊らされたのか、作品世界も視野も狭くしてしまった。誰も悪くない。意見を真に受けすぎた自分が悪い。全て自己責任。過去のミスはもうこれ以上書きたくはないのだけれど、自分にとって何がいけなかったのかは明確にしておきたい。


一番何がいけなかったのかは明白だ。


「圧倒的に人とのコミュニケーションを取らなかった。だから少しだけ入ってきた情報をあまりに大きく捉えすぎた。たくさんの意見が入れば一つ一つの意見は小さくなる。けれどもうまく人に話しかけきれずに、その日得た小さな情報だけを大事大事に反芻し続けた」


 もっともっと人と話しをしていれば。当時は自分なりに多くの場所に顔を出したりしていた。しかしそのほとんどで、その場に居るだけで浮いている時間がとにかく長かった。最早いないのと同じである。何かをしたというアリバイ工作だけをフェイスブックにアップして、何かをやった気になっていた。人と差をつけようとしていた。一体何と戦っていたんだろうな。フェイスブックの友達は大体が作家なので、それをいくらやったからといって、相手に「俺も頑張らねぇとな」と思わせるだけになる。人気度ではなく認知度は高かったと思う。それは間違いない。それで繋がる縁もあった。イベントに出してもらえたりもした。それはとてもありがたい事。今でもちゃんと思う。恩恵を受けて、それをまるで返せなかった。


 「そうだよね」「仕方ないよね」「難しいよね」作家として生きていくのは難しい。だから諦めてしまう人は多い。あまり上手く書けないのですが、城台はこの3年というか、活動を始めた当初から別の場所で働いていた。これはこれまであまり口にしてこなかったことだ。その理由は「作家として、グラフィックデザイナーとして生きています」と告げなければ、夢がないと思っていたからです。バイトしながらとか、仕事の合間にとか、そうしないと続けられない仕事だなんて言いたくなかった。直接会った人にはボソッと言ってはいたけれど、その度に驚く人が結構いた。


「あれだけ活発に動いているから城台さんはもうそれでメシ食えてるんだと思ってました」


 騙すつもりはなかった。ただ兼業でやっているということに、あまりいい気はしなかった。高校の頃、女の子がヴィトンの財布を持っていて、「アタシ今1,000円しかもってな〜い(ミ・ﻌ・ミ)」なんて言うのだ。その子はヴィトンの財布を持って自分の価値を上げているつもりかもしれないが、「お前のせいでヴィトンの価値下がってんぞ( ´_ゝ`)」と内心思っていたものである。それと同じ事を自分はやりたくなかったのかもしれない。



 そう、城台はこの3年何をやっていたのかは書かなければなりませんね。脇道に逸れているようで、Mahoramatic Non-fictionのコンセプトには非常に重要な要素です。凄く簡単に言うと「城台はある人の下について調理人になる道を進んでいた」です。そしてもう言ってしまおう。もう隠す必要なんて無駄なことだと気付いているから。その料理人としての道は断念しました。


 上に書いた「まったく金にはならず、人のためにもならず、自分ひとりのためだけに何かを作るのだとしたら、何がしたい?」に繋がるのですが、まず料理人になる道を進もうと思ったきっかけが、そうもうちょうど4年前になります。当時イベント出展であちこち顔を出していた時、どうもこちらの思惑と主催側の思惑が一致しないという感覚がずっとあって、一人その苛立ちを抱えていた頃。まぁざっくり言ってしまえば、「作品展示は出来ます。ですが場所の都合上、販売は出来ません」う〜んな内容です。しかしそのイベントは一般応募で参加できるものでしたが、さすが認知度だけは高い城台さん。主催側から出展のオファーを直々に頂いた。


 当日、現地に着いて驚いた。ポストカードを売っている人がいる。「あれいいんですか?」「まぁポストカードぐらいはね」充血した白目をむく城台。県外の出展だったので交通費やもろもろのコストがかかっていた。出展オファーを頂いたという経緯もあり、みんな同じ土俵でとにかく宣伝に特化するという名目で来ていたのに、それをやられちゃって心が爆散した。


 お客さんに名刺を配ることは出来る。チラシを配ることは出来る。しかし名刺は仕事に繋げるツールのようなもので、お客さんに受け取ってもらったところで本来の役割が果たせない。しかも名刺は名刺としか機能しない。そう、グッズとしても機能しない。受け取ったはいいがどうすることも出来ない。チラシもそうだ。名刺もチラシも文字通りの役割しか果たせない。あの当時は作品集を作ったり、ライブペイントの成果物を売ったりと、販売に力を入れようとしている時だった。一気に全てが崩れていったのが分かった。


 ほぼ八つ当たりに等しいが、それまで色々な場所で出展していておかしいと思うルールなんかが目に付いてはいた。しかし何処にいてもルールは遵守していた。その中でやり繰りしていたのに、主催側がルールを軽んじた。そこでポキッといってしまった。プチッといって怒りをその場でぶちまける事が出来ていれば何かが変わっていたのかもしれない。それが会話だ。コミュニケーションだ。自分の思いを相手にぶつけていれば何かが変わっていたかもしれない。でも当然そうは出来なかった。その事についてそれ以上は触れなかった。


 ずっと苛立っていた。イベントに出展することも個展をすることも、出会いを求めていた。しかしイベントサイドは違った。そのイベントそのものの成功を重視していた。城台は未来を見、イベンターは現在を見る。お客さんが集まってくれる。作品を見てもらえる。それで賑わってよかったよかっただ。


 「これはどうやって作ってるんですか?」「凄いですね」「綺麗」嬉しい言葉をかけてくれる。しかしその後「わたしは芸術とか分からないから」「いや〜凄いんだろうけど」「まぁでも頑張って下さい」。オブラートに包まれているが、どんなスナイパーや爆薬にも破られない強化ガラスがそこにあった。壁だ。檻だ。博物館、動物園。ヤギだ。100円の餌を差し出されてもさもさ食べている。ヤギだ。それ以上でもそれ以下でもなかった。そんなネガティブなことや売り上げとかの話しをするべきではないと思うだろう。当時自分もそう思っていた。だからこれまでこんな思いはひた隠しにしてきた。いい人でいなければ人はついて来ない。ただでさえうまく会話が出来ないのだから。そうして誤魔化し続けてきた。それが2014年にズバンっといってしまった。正直者が馬鹿を見たのだ。多少でも強引に物事を切り込んでいけば少しは融通が利いていたのかもしれない。引き返せなくなっていた。


 あの頃は焦っていた。段々と作品が作れなくなってきていた。目新しい題材が思い浮かばなくなってきていた。グラフィックデザイナーとしての自分の能力を発揮するために、仕事のオファーという「お題」が欲しかった。御幣があるかもしれないが、自分自身で作るべき推し進めるべきコンセプトがなくなりだしていた。もう何もなくなってきていた。ただ作り続けるだけになっていた。何のコンセプトもないのであれば、金にならないものを続けていくことは死を意味していた。だから誰かの役に立つ形でグラフィックデザインを作り続けていきたかった。


 「アーティスト」「芸術家」「作家」この言葉が持つ意味はあまりにも大きい。そして定義される。定義される事は枠にはめてしまうという事だ。定義と役割はたびたび混同される。誰の責任でもないまま「アーティスト」と定義され、その定義の中で役割を全うさせようとする。アーティストは物を作る、芸術品を作る。その中で新しい価値観を生み出したり、新しい視点を生み出したり。それが役割。要は物作り(物質的)をして、その中で批評や皮肉や展望を内包させよ、という事。それも駄目ではないけれど、あまりにも定義と役割の縛りが世間一般の認識として強く作用しすぎているように思う。「一生その道で食っていく覚悟でやっているのか」など。とかく縛りに気がいき過ぎてもう何が何だか。


 そうした苛立ちが募っていた時期にその当時働いていた場所で、後の城台の師匠が声をかけてきてくれた。「料理の道に進まないか」と。その人はとにかく強い人だった。間違いを見つければ徹底的に追求し、叩き、改善する。弱った人には寄り添う。最後の最後まで見捨てない。上下関係は徹底して守り、部下であり年上の人には敬いの心は忘れない。自分のような年下のミスは徹底してカバーし、チームを引っ張っていく統率力。職種や戦うフィールドは違えども、憧れの存在だったのだと思う。以前の活動において一番インスピレーションをもらっていたのはその師匠の言動・行動、そして料理のクオリティ。味もそうだけれども盛り付けの斬新さ新鮮さなどなど。仕事とはどういうものか、その師匠の考えが自分の仕事論と通ずるところが多々あった。


 人生のターニングポイントはいつ訪れるか分からない。それまで半分冗談のように言われてきていた。「お前コックになれば?」でも自分にはやらなければならない事があると自負していた。その誘いは何度も断ってきていた。しかしあの時は違った。自分が本気でヤバイと思っていた時期、結構マジトーンで「料理の道に進まないか」と言われた。その師匠の下で働きたい気持ちが少しあった。自分の理念と通じる考えを持った人であったし、その人以外で本当に共感できる人に自分は出会えていなかった。その誘いに城台は承諾した。



 制作が行き詰りそうだった自分、現状に対し何も出来ない自分。問題は外にある。そんなものはどんな場所にだってある。問題はその問題に対し何も出来ない自分。上記のような我執に囚われた状態で、しかもポキッといってしまった。しかしやりきっていなかった。製作が行き詰まりそうになっていただけで、事実まだ行き詰ってはいなかった。次の一手は残っていた。しかしその次が思い浮かんでいなかった。イベント運営に対する是非に関しても、事実何のアクションも起こさなかった。完全燃焼した先で次の道に進んだのではない。未練を残したまま、信頼する人から差し延べられた手に、甘えてしまっていたのだ。


 仕事は楽しかった。どれだけ辛いと思っていても辞めようとは思わなかった。それは師匠への信頼があったからだ。3年続いたのは師匠への信頼があったからこそだと思う。しかしそれも問題だったのだと思う。「料理人にならないか」と誘われた。それまで料理なんてまともにした事がない。上に書いた「お題」と捉えたのかもしれない。ここまで書いてきて考えをまとめながら、たった今そう思うだけかもしれない。言い訳のように聞こえるかも知れない。先に料理の道を断念したと書いているから。誤解されてしまうかもしれないけれども、それはそれでいい。いい人でいる必要はないのだから。でも今でも師匠への信頼も尊敬も微塵も揺らいでも削れてもいない。それを信じてもらうもらわないはどうでもいい。


 まぁやっと本編に戻ってくるんだけれども、Mahoramatic Non-fictionを作るコンセプトは最初に書いた通りなのですが(横道に逸れすぎて覚えてるかな?)、何故あのコンセプトを作ろうかと思う発端がその師匠から受けた恩恵から来ている。自分が生かせられているという事実と感謝からきている。生かされているだけでなく、自分も誰かを生かす力が欲しいと思う。そのモチベーションが城台の師匠であったという。


 城台の仕事内容は本当に残念極まりない様相で、自分でも己の残念さ加減には辟易していたのだが、師匠はあれこれ言いながらも「まだ間に合うから」と引っ張っていってくれた。そんな折、去年よく言われていた事があった。「30までに生まれ変わらななぁ」。そう、城台は三十路に突入しました。当時は29歳。この分かり易いボーダーラインにしてタイムリミット。ダブルEPを作っていた。毎年毎年何も成し得なかった自分が何かを残そうとしていた次期。はっきり言って逃げだ。料理人になろうという人間のすることじゃない。ダブルEPは頓挫し、Mahoramatic Non-fictionを作るなんて正気の沙汰じゃない。人間として終わっている。分かってる。それは分かってる。しかしだ。制作において先を見失った、打ち出すコンセプトが無くなってしまった。生殺しの飼い殺しで瀕死で辛うじて息をしていたあの制作意欲が数年振りに落としどころを見つけて湧き上がってきていた。人間的なポテンシャルが徐々に上がってきていた。


 Mahoramatic Non-fictionを作るエネルギーで自分のモチベーション、ポテンシャルを引きずり出そうと思った。ポジティブになればインプットもアウトプットも前向きにどんどんできるんじゃないかと期待した。そして「30までに生まれ変わる」という目標に対して、20代最後の軌跡をしっかり残そうとも思った。なのでMahoramatic Non-fictionの完成も急いだ。時間がない中で「本当にこんな事をしていていいのか」。そんな後ろめたさはあった。それでもやった。間違いかどうかは後に検証すればいい。「30までに生まれ変わる」そのゴールラインに突っ走った。


 Mahoramatic Non-fictionは最高の出来栄えになった。楽曲は過去最高クオリティ、ジャケットは本来フォトコラージュで作ってみたかったテイストで作ることが出来た。伝えたいコンセプトが生まれた。でもこのコンセプトはずっと自分の中にあったものだ。「やり続けていきたい」「誰かの役に立ちたい」新しいようでいて、やっと最古の本音を出した瞬間だった。まだまだ言い足りないけれど、もっともっと殻や壁を壊して自由にならなければならないのだけれど。考えてみれば、一旦活動を凍結させるあのわだかまり。あれはニーズだったんだと思う。それは誰でもない自分のニーズ。それをぶっ壊せばもっと先へ行けたし、後続のために道を拓くことができたはず。それは業界や文化を拡張する一助になっていただろう。師匠の言葉に甘えて目の前の課題に目を逸らした。


 こんな言葉がある「チャンスはピンチの顔をして訪れる」。後になって気づいても遅いけれども、まだ遅くはない。気付いたのだから。そして失ったモチベーションを取り戻したのだから、それどころか以前のモチベーションを軽く越えているのだから。一石どころか大陸一個落とし込んでやるぞと。まだ遅くはないと思い、進もうとする意志は師匠の下にいたからこそ抱いた熱意だと思う。師匠と一緒にいて良かったし、微塵も後悔していない。時間を戻すが、結果的に「30までに生まれ変われたか」という問いに対して、仕事上は望んだ様にはいかなかった。制作で上がったモチベーションで仕事のモチベーションも引っ張り上げたいと思っていた。それは上手く機能しなかった。そう思い通りにはならなかった。


 なんか「Mahoramatic Non-fiction」を作った1年前と今の考えがごっちゃになってしまってきたんですが、もう色々端折ります。料理人としての道を諦めた。師匠の下から離れました。その少し前に師匠と約束していたことがあって、その内容は半分冗談のような感じでもあるけれども、その約束を実現するために師匠の下を離れました。師匠の下にいたら、自分は甘え続ける。そして約束は果たせない。この約束が何なのかは書けません。絶対に誰にも言えません。だけれども分かって欲しい。安定を捨てました。師匠の下にいれば安全で安定した社会生活が送れれていたでしょう。自分の心の声に正直になること、ずっと支えてもらっておいてそれを無にしてしまったこと、この先思い通りにならないかもしれない不安。色々あります。運命を変えよう。Mahoramatic Non-fictionという言葉は嘘じゃない。それを本当にしよう。まずは自分から。人は馬鹿だと言うだろう。今失ったものよりも、失わなかったことで失う未来の損失は計り知れない。気付いた今しかないんだ。絶対にまた帰ってくるから。「Mahoramatic Non-fiction」という言葉をもう一度使う時、自分は誰かの手を引いて共に素晴らしい未来に突き進んでいると、そう信じる。




Mahoramatic Non-fiction

01.Jyagyawli Makcoled 5:28

02.Benthend Warrham 3:57

03.Leoryphan Vistavkifco 5:14

total time 14:41
Glow Defective Soldier Records 014


FREE DOWNLOAD
https://glowdefectivesoldier.bandcamp.com/album/mahoramatic-non-fiction
CD無料配布ページ
https://glowdefectivesoldier.stores.jp/
Youtube全曲視聴




 長々とした記事になってしまいました。最後までお読みいただきありがとうございました。見苦しい部分が多々あったことと思います。次回は「Dramasochistic Bon-voyage」のコンセプトについて書きたいと思います。「まだやんのか」と思われそうですが、次回を最後に現在の時系列に戻れると思います。そして次回リリースするEP「AIDMAtic live Rain-bow」の情報を書いていきたいと思います。


これからがスタートです。
よろしくお願いします。


ではでは(・∀・(・∀・(・∀・*)


ε(*´・∀・`)з゙βуёβуё”ε(´・∀・`*)з

Mahoramatic Non-fiction制作秘話

 地獄には救いがない。だから蜘蛛の糸というものが頭上に降りてくれば、それを希望とみて掴み、昇る。しかし現実は違う。救いや娯楽はごまんとある中で、自分の判断が蜘蛛の糸を掴む選択だった事に、人は事後になって気付く。かくしてダブルEPをボツにした城台は手元に転がった奇跡を握り締め、未開の地へ向かって歩を進めることとなる。



 上記内容が「なんのこっちゃ分からん」という方は前回のブログ記事をお読みになってから本記事を読むとすんなり入れると思いますので、そちらからお願いします。これはその続きです。
http://d.hatena.ne.jp/glowdefectivesoldier/20181105/1541443881



 さて、とりあえず手元にある曲にはまだ名前がない。あれこれ考えてもまるでしっくりこない。そこで、昔フォトコラージュでつけた名前を付けようと思い、以前途中まで作って結局完成しなかったボツ作品が1個あったのを思い出し、それをとりあえずくっつけておく事にした。3年前に最後に発表したフォトコラージュ作品の名前は「Dievon Airouche(デボン・アイルーチ)」。それと平行して作っていたのが「Jyagyawli Makcoled(ジャジャウリ・マコレッド)」。


 最初はこれでいいのかと思いながら眺めていたのだが、時間の経過とは不思議なもので、いつしかその名前はJyagyawli Makcoledのものとなった。ジャジャウリ・マコレッドはジャジャウリ・マコレッドのものとなった。凄くはまっていた。以前は作品の完成を完成を見ないままお蔵入りになっていたものが、こうしてあるべき姿のようにスッポリと納まった。まるでこの曲のために名付けられるために。ダブルEPがボツになり、まだ外には冬眠もしくは消滅と認知されていたGlow Defective Soldier。Jyagyawli Makcoledの言葉を発信することが春の芽吹きやスタートラインになると思ったのであった。


 Jyagyawli Makcoledが出来上がったからといって、じゃあこんな感じでどんどん行こうでどんどん行けないのが、永遠の素人城台さんが城台さんたる由縁である。マジで形にならない。Jyagyawli Makcoledと同じ展開の曲はいらない。一聴して奇跡を感じるような体験。万人に届くものを作ろうとは思わない。だからといって自分の琴線に触れないものを作っていていいのかといえば、そんなはずはない。2006年の活動開始からこれまで、ほぼ出たとこ勝負のフィーリング100%でやってい過ぎていたために、最初の一音が上手くいかなければ惰性で作業を続けてもいいものは出来ない。その勘だけは培われていたようだ。そのおかげで制作はまるで進まない。


音を出す。
消す。
音を出す。
消す。


 暫くして出来上がったのは、バリバリトランスでギッシャギシャにノイズをぶち込んだ曲。名前は「Alchogen Quarikuer(アルコーゲン・カリカー)」。これが確か去年の8月か9月頃。そしたら次の曲は意外とスッと出てきた。名前は「Diginent Benvlant(ディジネント・ベンブラント)」。そのディジネント・ベンブラントがアルコーゲン・カリカーよりもノイズバッキバキだったので、バランスをとるためにアルコーゲン・カリカーをさらにバッキバキにしてしまうなどをやっていた。


 この頃になると、ではCDにしてリリースするのであればどういった形がいいのかを同時進行で思案・着手し始める。12曲入りのダブルEPに対し少数精鋭のEPを作ることとなり、6曲構成のEPがかなり落とし所として落ち着いた。ジャケットもダブルEPのアートワークを土台にして進めていこうとしていたが、やはりまるでコンセプトが異なるので一から作り直すこととなった。


01.Jyagyawli Makcoled
02.Cooknedga Hiiznee
03.Diginent Benvlant
04.Hohzkin Mimoriza
05.
06.Alchogen Quarikuer


 この時は上記のような感じになっていて、LPで考えるとA面・B面それぞれ3曲ずつ入ると仮定して、アルコーゲン・カリカーと対になる存在としてディジネント・ベンブラントが生まれた。さらにジャジャ(面倒なのでこっから曲名を略していきます)とディジネントはあまりにも繋ぎが悪くくっ付かないので、それをとりもつような曲が欲しい、かつちゃんと自己主張の強い自立した曲が。それで生まれたのが「Cooknedga Hiiznee(クークネガ・ヒーズネー)」。エレクトロファンクな音像でとても聴きやすい出来栄え。


 前半の終わりにディジネントがスピーカーぶっ壊す勢いで突き進んで一旦緩やかに落ち着く。その構成でバトンを受け取るのが「Hohzkin Mimoriza(ホフスキン・ミモリザ)」。ボツになったダブルEPの中で一際タイトルが気に入っていて、これだけは引き継ごうと思っていたミモリザ。教会音楽のような包容力をまといながら、音が割れない高域の限界スレスレを攻める頑張り屋さん。それをもう一度作り直そうとスタメン入り。


 最後にアルコーゲン・カリカーにバトンを渡す曲は、ジャジャに続くリード曲。簡単に言うと強力なシングル曲が欲しかったのである。ジャジャは覚醒して本気を出すのに2〜3分かかる。単体で見た時の完成度は高くとも、前に出していくにはプロモーションの観点ではあまり前には出せないと考えていた。その役割を担えるだけの逸材。しかし上に書いた通り永遠の素人の城台さんに、そんな簡単にシングル曲を作り上げることが出来るのか。


 これが2017年最大の事件となる。正直に言うと、この曲に関しては大まかな部分だけで、細かいレコーディング風景は覚えていない。制作のモチベーションの全てを持っていかれそうになる出来事が発生した(これについてはいつか書く日が来ればいいなと思っています。でも今は書きません書けません)。しかし逆にそれが制作のモチベーションになってしまった。かなりの速度で出来上がった。ジャジャを作っていたそれ以上の手応えを感じた。5分間一息つくことなく突っ切る。それぞれの音がお互いに補い合いながら爆裂し、ギッタギタにノイズまみれなのに美しくまとめ上がっている。


 名前は同時期に全く違う角度から降って湧いた。「Leoryphan Vistavkifco(レオリーファン・ビスタフキフコ)」。ミックス前から、それよりも音を録っていた段階から確信していた。この曲はこれまでの最高傑作だ。説明の方法はない。言葉に表せない力がこの曲には宿っていると思う。聴けば聴くほど凄みを感じる。これを完成させて、一つの考えが頭に浮かんだ。



「このEP、6曲もいらない」



 5曲目に自分が最高傑作だと思い込んでしまった曲を配置している。その後にアルコーゲン・カリカーがある。そんな終わらせ方に意味はあるのか。せっかくの最高傑作を意識してもらうには、6曲だと意識を分散させてしまう。しかもそれぞれが特色を持った6曲。完璧な構成のCDだったらアルバムでやればいい。これはEPなんだ。そう思い立ってから、苦渋の選択を迫られる。


 本当に大事な曲だけ。3曲にしよう。ジャジャは生かす。2曲構成のEPも考えた。でもジャジャとビスタフキフコは綺麗に流れていかなかった。完全に別の世界にいる。否、両者は完全に創造主となってそれぞれの領域を築いている。全く新しい小宇宙を創造している。


 もう一曲はどうしようか。この2曲をとりもつ曲。クークネガ・ヒーズネーは駄目だった。この3曲だとビスタフキフコが浮いた。どうにか形にならないかとダブルEPのOqufermum Ingiddを持ってきてみたりと色々とパズルを繰り返した。しかしそこでミラクルが起きる。収録時間がその3曲で14分41秒。実はこのEPは型番がGDSR014.即ち城台さんがリリースする14枚目のCDになる。


ジャジャ5:28
ビスタフキフコ5:14


 この間に入る曲は3:57である必要がある。そこで2曲のブリッジにならずに個性を発揮できる曲。そこで一度は候補からもれたアルコーゲン・カリカーとディジネントを目の前に並べた。アルコーゲン・カリカーは4:08.ディジネントは3:30。ディジネントでいこう。


 しかし上で書いた通り、ジャジャとディジネントは直接つなげようとすると反発する。クークネガ・ヒーズネーのない状態では配置できない。そこでパソコンの中にあるボツ音源の海の中からヒントを得ようと潜っている時に、ダブルEPの制作中にボツになった別のディジネント・ベンブラントがあった。その曲の一部をイントロにしてくっつけた。そうすることでディジネントは見事3:57の曲に変化し、見事3曲のEPが形作られた。


 ジャジャとビスタフキフコに比べてディジネント・ベンブラントの名前に弱さを感じていた。そこでダブルEPの中でこのままボツにしたらもったいない名前がいくつかあって、それを引き継がせようと思い、「Benthend Warrham(ベンセンド・ヴァルルハム)」に名前を変更。


01.Jyagyawli Makcoled
02.Benthend Warrham
03.Leoryphan Vistavkifco


かくしてこのようにEPの体裁が整ったのであった。これが去年の12月。


 ジャケットは同時進行で制作していた。コンセプトは「白」写真を切り抜く時間がもったいないと感じるほどに急いでいた。そこでGlow Defective SoldierのHPにあるグラフィックデザインのサンプル画像を流用しようと思い立った。これは手を抜いたということではなくて、これらは全てプロダクト化されていない、あくまでサンプルとしての存在であったので、クオリティは低くない。これらはちゃんと作品として完成させて世に放つべきだと思った。サンプルには実績がない。実績のある成果物こそ最高のサンプルと成り得るのではないか。命を吹き込もう。存在意義を与えよう。


そうしていいところを少しずつつまんで再構築したのが今回のジャケットである。


 出来上がる。かなり急ピッチで作り上げたので100%どんなやり方で作っていたのかは覚えていない。ストーリーも大事だけれども、それよりも未来に向けたメッセージのほうが大事なので、このEPではそこを語るべきだなと思うのです。


 それでもまたしても長くなってしまったので、ここで一旦区切りをつけます。今回は制作秘話として、次回はこのEPが何を言いたいのか、そのコンセプトを語りたいと思います。



ではでは(・∀・(・∀・(・∀・*)



Youtubeにて全曲視聴出来ます。


CD無料配布実施中。ぜひお手元に置いてあげて下さい。

https://glowdefectivesoldier.stores.jp/